被爆校舎の壁の中に


















     原爆の爆心地から東350mと西460mの地点に二つの小学校(当時の名で
     袋町国民学校と本川国民学校)があった。その日、一瞬にして多くの児童が命を
     失い、木造校舎は全て倒壊、全焼。鉄筋コンクリート造の校舎だけが、外郭のみ
     を留めた。袋町校の校舎は救護所となり、多くの瀕死の人が辿り着き、また、
     家族の安否を気遣う人たちが、焼野原の瓦礫の中に残ったこの建物を訪れたと
     いう。
     いずれの学校も、被爆から1年も経ぬ春、再開。曲がった鉄枠だけの窓と黒く傷
     ついたコンクリートの壁に向かっての授業であった。
     建物は、その後も壁を塗り床を張りなおして校舎として長く使われた。
     学校の建替えが検討された平成11年の春のこと、壁の内装の下から、コンクリ
     ートの面に書かれたチョークの文字が現れた。当時、被爆者の消息などを尋ねる
     「伝言」がいっぱいに記されていたのだ。
     「右のモノ御存知ノ方ハお知らせください。ヨロシク オネガイ イタシマス・・」など
     簡単な文面だが、我が子の安否を尋ねる母親の必死の思いが伝わる。
     二つの小学校の被爆建物の一部は保存され、現在は平和資料館となっている。

     (8月6日。今年もまた、遠い過去となったあの日がやってくる。
      資料館として残された建物を訪れると、あの恐ろしい時間が止まったまま潜んで
      いた。窓を通して、「しゅうごう」という先生の声、「せんせーい・・」という生徒の
      元気な声が響いてくる。
      袋町小学校の壁の残されたチョークの文字については、井上恭介氏(NHK)によ
      りルポされ、「ヒロシマ 壁に残された伝言」として、2003年に出版された。
      (集英社新書)  被爆の記憶と証言者が次々と失われて行く時の流れのなか、
      その本は、筆者の次の言葉で結ばれている。
      「私たちは 「あの日の悲しみ」 を引き継ぎ伝える術を身につけておかねば
      ならない・・」)
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