内海の瀬戸、白い航跡
















     内海はいくつもの海峡に
     瀬戸を造ります。
     その潮の流れの中を
     釣り船が、そのままに
     流れています。
     フェリーが、穏やかな航跡を
     残して去ります。
     突然の高速旅客船や
     モーターボートの白い航跡。
     はっと驚かせられます。
     こんなとき・・
     高速船の上からは、きっと
     全く違った海の表情が
     見えているのでしょう。
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黙想の家、長束修練院


















     広島市の中心より北へ4.5k、キリスト教会イエズス会 長束修練院がある。
     正面の建物の奥にある三重塔を模した礼拝堂の屋根、そしてこの懸魚に付く
     十字架を見なければ、教会の建物とは思えない。この寺社建築に少々の西洋風
     を採りいれたような不思議な建物は、建設時(昭和13年頃)の時代背景と、この
     地に多い浄土真宗の安芸門徒に配慮したためと言われる。
     昭和20年8月6日、原爆の爆心から隔たっているとはいえ、強烈な爆風を受け
     窓枠はへし折れ、ガラスの破片が一面に飛散したという。そして、市の中心部か
     ら北へ北へと逃れてきた傷ついた人々の群が助けを求めてくる。当時の院長
     アルペ神父は、医学を学んだ経歴を持ち、熱心に治療にあたったという。
     2003年に立てられたアルペ神父の胸像・・その限りなく柔和な表情・・が院の
     庭にある。
     修練院の裏山に信徒の墓とキリスト像がある。急な参道にはキリストの受難
     (とキリスト教徒が呼ぶ)の物語を刻んだ銅版レリーフが点々と掲げられている。
     キリスト像に至る黙想の道である。

     (この地は、今や広島市のベッドタウン。込み入った住宅の道を尋ね尋ねてやっと
      修練院に辿り着くのです。戦中から戦後にかけて院長を務めたアルペ神父の胸像
      の前で、そう、何かを語りかけられたような気持ちになりました。多くの人々の心に
      影響を与えた神父は、後にイエズス会総長となり、世界に核兵器の廃絶を訴えた
      といいます。
      私は、キリスト教徒ではないので、この建物の中には入れません。
      修練院の前で、純白の僧衣のシスターにお会いしました。玄関前に寝そべる猫に
      餌を運ぶところでした。「こんにちは・・・」それだけで何も語られないけれど、優しい
      表情が印象に残りました。)
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被爆校舎の壁の中に


















     原爆の爆心地から東350mと西460mの地点に二つの小学校(当時の名で
     袋町国民学校と本川国民学校)があった。その日、一瞬にして多くの児童が命を
     失い、木造校舎は全て倒壊、全焼。鉄筋コンクリート造の校舎だけが、外郭のみ
     を留めた。袋町校の校舎は救護所となり、多くの瀕死の人が辿り着き、また、
     家族の安否を気遣う人たちが、焼野原の瓦礫の中に残ったこの建物を訪れたと
     いう。
     いずれの学校も、被爆から1年も経ぬ春、再開。曲がった鉄枠だけの窓と黒く傷
     ついたコンクリートの壁に向かっての授業であった。
     建物は、その後も壁を塗り床を張りなおして校舎として長く使われた。
     学校の建替えが検討された平成11年の春のこと、壁の内装の下から、コンクリ
     ートの面に書かれたチョークの文字が現れた。当時、被爆者の消息などを尋ねる
     「伝言」がいっぱいに記されていたのだ。
     「右のモノ御存知ノ方ハお知らせください。ヨロシク オネガイ イタシマス・・」など
     簡単な文面だが、我が子の安否を尋ねる母親の必死の思いが伝わる。
     二つの小学校の被爆建物の一部は保存され、現在は平和資料館となっている。

     (8月6日。今年もまた、遠い過去となったあの日がやってくる。
      資料館として残された建物を訪れると、あの恐ろしい時間が止まったまま潜んで
      いた。窓を通して、「しゅうごう」という先生の声、「せんせーい・・」という生徒の
      元気な声が響いてくる。
      袋町小学校の壁の残されたチョークの文字については、井上恭介氏(NHK)によ
      りルポされ、「ヒロシマ 壁に残された伝言」として、2003年に出版された。
      (集英社新書)  被爆の記憶と証言者が次々と失われて行く時の流れのなか、
      その本は、筆者の次の言葉で結ばれている。
      「私たちは 「あの日の悲しみ」 を引き継ぎ伝える術を身につけておかねば
      ならない・・」)
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