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四国遍路の旅記録  平成26年秋  その4ー1

小松、吉祥寺、前神寺、西条へ

この日は小松の宿を発って、63番吉祥寺、64番前神寺におまいりし、旧讃岐街道を辿り西条まで、そして一部バスを利用して石鎚山の麓、西之川まで行く予定です。
後半の行程については後にして、まず前半の行程の御託から。

この辺りの遍路道は基本的には旧讃岐街道に拠っています。しかし、前神寺の先から西条を越えた飯岡までは、旧讃岐街道に拠らず、武丈公園や地蔵原を通る山裾のルートが歩くにはとてもよい道筋であり、これを通る遍路が多いようです。
協力会のへんろ地図も、この道(のみ)を遍路道として採っています。
私はヘソ曲がりですから、4度目にして初めて旧讃岐街道を辿って西条まで行ってみることにします。

63番吉祥寺。境内には成就石やくぐり吉祥天女などの仕掛けがあり、多くの遍路が試します。
門外に茂兵衛道標(197度目、明治36年)、北口に「これより前神寺へ廿丁」の徳右衛門標石。東口に安永9年の「これより一丁かち水あり」と芝之井を案内する標石。南口に明治14年の円柱と角の二つの利平道標、など。

 吉祥寺で

 吉祥寺南口の利平道標

前神寺への道。
西泉の阿弥陀堂の隣に「のだふじ」の樹。その一角に「こんぴら大門より十九里」の金毘羅道標。
その先、久万笠松城主であった丹民部守越智清光の墓と神社。(丹氏は河野氏の出。天正13年豊臣秀吉の四国侵略で討死。)
石鎚神社(口ノ宮)の大鳥居を見て参道を横切り64番前神寺へ。(石鎚神社へは明後日まいる予定。)
前神寺は、江戸時代までは石鎚神社の境内にあった寺。澄禅は石鎚山の「里坊」、真念は「前札所」と表現しています。
「名所図会」の前神寺の絵図を見ると、まさに今の石鎚神社の配置であることが確認できます。高台に蔵王権現、その下に大師堂、その右が寺であると想像できます。


「名所図会」前神寺絵図

今の前神寺は阿弥陀如来を祀る。鬱蒼とした森に囲まれた本堂はそれは立派な佇まいであり、元札所とも言える石鎚神社に負けまいとする気迫が感じられるようです。大師像も他の寺では見られない独特の姿を見せます。

 前神寺本堂

前神寺の大師像

西参道にある昭和8年の、次の札所三角寺に近い三島までの汽車利用を勧める標石、東参道の「是より三角寺十里」の徳右衛門標石、奥の院仙龍寺への参詣を勧める長文が刻まれた茂兵衛道標(202度目、明治37年)。これらの多くは以前の日記でも紹介したように思います。
もちろん、徳右衛門標石は、旧地石鎚神社前から移設されたものでしょう。


前神寺東参道の茂兵衛道標(202度目、明治37年)

 前神寺東参道の茂兵衛道標(部分)

 前神寺東参道の徳右衛門標石

前神寺から1kほどで、武丈公園に向う新しい遍路道を分け、旧讃岐街道は国道11号を斜めに渡って直進します。道筋に自然石の常夜燈や地蔵堂などが残りますが、新しい家が多く旧街道の風情を感じるという道ではありません。
やがて加茂川の土手に。土手の下には地蔵堂、上には明治4年の大きな常夜燈。
昔は、水の多い時には渡し舟、普段は流れに板をわたして渡っていたとか。今もそんな流れの川です。ここに木橋が架けられたのは明治44年のこと。

 加茂川左岸の常夜燈


加茂川、旧街道の渡河地点付近

今は少し上流の国道に架る加茂川橋を渡ります。
大常夜燈の対岸の場所から旧街道は続きます。土手に地蔵堂。
街に入ったお堂の前に「へんろ道、前神寺へ二十丁、三角寺奥の院へ十三里半、駅へ七町半、次ノ四辻ヨリ左へ曲ル」と丁寧な道標。

 旧街道と川原町の道標


西条市川原町の寿し駒の道標

その先ホームセンター前に徳右衛門風の道標。これは明治44年の「寿し駒」日野駒吉のもの。
その先の旧街道沿いには、「三角寺迄九里」の下部の埋まった徳右衛門標石。更に1kほど先に同文の刻まれた標石。そこはもう新遍路道との合流点近くです。

JR西条駅に戻り、バスで黒瀬峠まで移動。石鎚山の麓、西之川を目指します。
さて、本日後半の御託その1を述べましょう。
前日の日記で石鎚山と横峰寺の関係と参拝ルートについて書きましたが、ここで石鎚神社(里社、今の口ノ宮)と前神寺の関係ともう一つの参拝ルートについて書いておかなくてはなりません。おっと、その前に石鎚山霊場の変遷について触れておかなくてはなりませんね・・

石鎚山霊場の様相の変遷
石鎚山霊場の変遷について概況しましょう。
中世までの石鈇霊場(明治に至るまで「石鎚」の名を用いることはない。)の開山に関して、それをそのまま今の石鎚山に当てはめることはできず、笹ヶ峰、瓶が森、石鈇の三つの山の鼎立状態にあったと解釈すべきであると思われます。
中世期が進むに連れ役小角の伝説が広まり、蔵王権現を祀る修験者の活動が見られるようになります。神仏習合の流れのなかで、この地域に開かれたとされる霊山と別当寺の組み合わせを縁起などの諸文献に見られるものを拾い上げ、年代の古い順に挙げると次のようになると言われます。
    笹ヶ峰・・・正法寺(新居浜市)
    瓶が森(石土山)、子持権現山・・・・天河寺(てんがじ)(極楽寺の向いの大保木に存在した、室町時代に焼失、     現廃寺。中腹に石土山常住(坂中廃寺)を有す。)
    石鈇・・・・前神寺、(常住(成就)を有す。)、横峯寺

即ち、中世末期から江戸初期に笹ヶ峰が衰微し、続いて瓶が森が衰微し、江戸時代においては前神寺と横峯寺の競合が続くという様相を呈するのです。
さて江戸時代以降の様子を見てみましょう。
上記の如く江戸時代に入るまでは石鎚(石鈇)の社は常住の地(今の成就)にあり、別当としての前神寺もそこにありました。江戸時代に入り四国遍路が盛んとなると、常住まで上ることの困難さから、横峰寺は星ヶ森に遥拝所を、一方前神寺は遥か離れた平地に蔵王権現を祀り、里前神寺を設け納経所を置きます。(常住の地の寺は奥前神寺と呼ばれます。)
真念の「道指南」(1687)は、六十番横峰寺の項「・・よこミねより二町のぼりいしづち山の前札所、鉄のとりゐ有。」六十四番里前神寺の項「蔵王権現のやしろ、これすなわち石鎚山の前札所なり。」と記します。
江戸時代中期の石鎚山(石鈇山)別当職をめぐる前神寺と横峰寺の争い(どちらが石鎚山(石鈇山)の山号を名乗るか)は京都御所に持ち込まれ、明和6年(1769)「(両寺)論条御裁断之事」により「「石鈇山社別当」は前神寺が専称し、「仏光山石鈇山社別当」は横峰寺が称するとする、曖昧な裁決となります。
「名所図会」(1800)では、六拾番仏光山福智院横峰寺の項「石鈇山遥拝所門より壱丁下り印木より左へ三丁余上りあり、石鈇山へハ常に参る事を得ず、此所にて拝す、」と、六拾四番里前神寺の項「此寺ハ、石鈇山へ人常に参る事を得ず、此所にて拝す。」とあります。
その後、江戸後期文化年間に常住の地が属する千足山村と横峰寺(小松藩)より前神寺(西條藩)に訴訟があり、文政8年(1825)の公裁により「常住の寺は奥前神寺とは呼ばず常住山と称すべきこと、ただし別当は前神寺のままとする」となります。(「西條誌」)
明治の神仏分離により、里社としての石鎚神社と前神寺の分離と前神寺の一時的廃寺、横峰寺もまた一時的廃寺という事態を経て、それぞれの神社、寺が不明確で微妙な立場を保ちつつ石鎚山信仰を支えているというのが現状と言えましょうか。
こうして石鎚山霊場の変遷を見てくると、それは様々な紆余曲折を孕みつつ進み、特に明治の神仏分離政策が信仰する者の心とは離れ、経緯と真実を歪めてきたという印象を拭うことができないのです。
                             (令和5年12月改記)


石鎚山頂上社に達する参拝ルートとして、前日の日記で横峰寺を経る二つについて記しましたが、現状では、それよりやや鮮明な色合いを呈するように思えるルートとして、前神寺→石鎚神社(里社、今は口ノ宮と称する)→(二並山(ふたなやま))→黒瀬峠→大保木→中奥→河口→今宮付近→成就社(中宮)→頂上社、が確定しています。(二並山のルートについては後でふれます。)
これは、このルート上に石鎚参拝道標としての石鎚三十六王子社が置かれていることからも確認できると思われます。
因みに、「名所図会」の横峰寺の項の前段に「・・おうごう村(大郷)・・深方村(現不明、あるいは「ふるぼうむら」のことか)・・是より甚だ山坂けわしく拾七丁程上り一ノ皇子社、石鈇山三拾六王子の内也、左手にあり・・」と記されるように、現在黒瀬湖近くにある第一王子社は江戸時代中期には大郷から上る道筋(おそらく古坊あたり)にあったと思われます。石鎚参拝道の主導権争いの熾烈な様相を感じないではおれません。

さて、こういう御託の成行きで、石鎚神社の一の鳥居がある黒瀬峠から石鎚山頂上社まで、王子社を辿りながら往復しようという計画です。
まず、河口までの参拝道を辿ります。河口から県道12号で西之川へ、ここで一泊。翌日、西之川登山道(正しくは御塔谷道というらしい)を上り(この西之川道、あるいはその近くに7つの王子社が置かれているのです。)石鎚山頂上社へ。頂上山荘に一泊。翌日、頂上社から成就社へ下り、今宮道を通って河口へ。そして、往路で残された黒瀬峠から石鎚神社(口ノ宮)への道を探ろうというものです。
ただ、計画と実行とは異なります。私の場合、大抵、実行は易きに流れます。今回もそうでした。それは兎も角・・ 
それに参拝道は基本的には修行道です。詳細な地図や案内書を持たない私は行きつけない王子社も多いでしょうし、ルートは分かっていても体力的に無理なところもあるでしょう。遥拝も含めて、その近くを通るというだけでも満足することにします。
西之川へ行くということは、その奥にある東之川に行きたいという、もう一つの目的もあるのです。これについては、西之川に着いたときに書くことにしましょう。勿体つけて・・

一ノ鳥居をくぐり黒瀬峠から南、大保木に向かいます。この古くからの道は、加茂川に沿う現在の県道(17号)に依るのではなく西の山麓を伝うルートをとります。
横峰寺への車道(平野林道)の出発点でもある旅館のすぐ傍にあるのが、第一福王子社。覆堂の中に地蔵と小さな石殿。次の王子社は大保木に入ってから出会う第二檜王子社。番号付で呼ばれます。しかし、江戸後期の「西條誌稿本」(天保13年 1842 詳細は後記)には、黒瀬山の項に「・・石鈇の道にある三十六王子の如きものにて有たるならん・・」、また、前大保木山の項に檜の王子としながらも「三十六王子内にてハなし・・」と、やや曖昧な書き様。これは前にも少々触れたように、江戸後期の石鈇参拝道の勢力が横峯寺を経るルートに偏っていたためでしょうか。
第一福王子社から緩やかな道を1k足らず、尾根に達すると道外れに古い鳥居。ここが「七曲り坂」の始まり。谷まで標高100m下り50m上る。昭和初期の地図には記されるが現在は廃道。山屋も苦労するようです・・「西條誌稿本」には「・・七曲りといひ来りたれ共實実ハ八曲りあり、・・」と紹介される。(昭和初期の大保木地図参照)
大保木に入ると、第二檜王子社。第一王子社と同様の設え。その先には、私が何度も訪れたことのある大保木小学校廃校跡。懐かしい・・子供たちの声も甦るようです。
それからほど近くに九品山極楽寺。石鎚山真言宗総本山(むかしは古義真言宗、京都仁和寺末、檀家五百余軒を数えたという。これから訪ねる観音堂や地蔵堂の総元締めの立場にもあります。向かいに聳える屏風のような山の頂き。(昔は龍王山と呼ばれた。その山中にあった天河(ガイ)寺が極楽寺の前身であったと伝える。)寺から県道に下る330段の石段が見おろせます。
この道は、河口、西之川を経て瓶ケ森へ、県境を越えて土佐寺川そして阿波へ繋がる道です。 (令和5年2月 改追記)


昭和初期の大保木地図                           

 

大保木小学校跡

 極楽寺本堂

 
極楽寺山門(後方は高森)

極楽寺から続く山道を千野々近くの県道に下りたところの崖上に第三大保木王子社があります。そこより10mほど下ったところに三十六王子社最初の「覗きの行場」。山道を行き県道に降りる手前に第四鞘掛王子社。しばらく県道を行き、淀の集落の先、右上に上る狭い舗装道で細野へ。
細野には数軒の家と畑もみられますが人の気配は殆ど感じられませんが下ってくる若者を乗せた軽自動車に出会いました。あるいは何軒かには人が住んでおられるのかも。
王子社の案内標識があり、そこから山道に入ります。廃屋の横を抜け、足元は一応自然石の石段になっていますが、雑草の繁茂が著しく進めなくなります。


第5、第6王子社への道

 森の中の軍人の墓

彷徨するうち森のなかで、あの先の尖った独特の墓石の軍人の墓に出会います。
「居士ハ大正六年○月○日父○○ノ三男ニ生れ資性温良昭和十二年六月一日志願兵トシテ佐世保海兵団ニ入団同十五年十月横須賀機関学校ヲ卒業累進シテ機関兵曹長ニ任ゼラレ第二次世界大戦下波濤萬里ヲ馳駆シテ各所ニ転戦中昭和十九年○月○日比島沖海戦ニ於テ戦死セリ・・昭和二十二年○月○日」 
この村から出て行った若者は還らなかったのですね。こういった墓銘、遠い遠い昔の日にも何処かで、私は見たことがあることを想いだしていました。
結局、この日は第五以降の王子社には達することができませんだした。日を改めて到達し得た王子道(参拝道)についてここに記しておきましょう。

大嶽

細野の集落の中の車道から山道に入り暫く行くと迫割禅定(跡?)、そこから100mほどで第五細野王子社。この辺り、岩山(大嶽)が聳え立っているのが見えます。ここより下る急坂に昔は鎖があったといいます。江戸時代後期の「西條誌」には「今の弥山の下より第一の鎖、昔は此処に懸り有りしと云、此坂嶮きゆえ也、後世道を作り、少し歩み易く成りたれば、其鎖リを弥山へ移す」と記されています。その先数分で第六子安場王子社。ここに二つ目の「覗の行場」があります。
正面に河口の三碧橋、今宮登山口も見えています。素堀りのトンネルをくぐり河口、今宮登山道にかかります。道が左に大きくカーブする先、荒れ果てた三光坊不動堂の横から入り第七今宮王子社、その奥10mほどで第八黒川王子社。覗の行場があります。黒川谷を見下ろす恐怖の急崖。今宮道から旧王子道に入り、廃屋跡、その奥に地蔵堂。このお堂、昔は権現堂であって女人禁制であったとも言われます。少し上ると第九四手坂王子社。その先は急坂の四手坂。「西條誌」に「川を渡れバ此坂あり、坂の間、十町也、王子あり、覗あり、前の覗に比すれバ浅し、四手坂、家数わずかに四五軒」とあります。坂を登れば加茂川を隔てて東側の稜線の岩山が見えます。(昔は人の顔に見え「目鼻岩」と言われた。少し下にある写真「今宮道の入口付近から二ノ岳(だき)を望む」の二ノ岳の岩山が昔は目鼻に見えたのだと思われます。)
第九より40分ほどで第10二之王子社、さらに第11小豆禅定王子社、第12今王子社、第13雨乞王子社と続き、その先で今宮登山道に合流し成就までは整備された道となります。
なお、第10から第13の王子社の道は厳しく林道にも惑わされ辿ることは容易ではありません。山道に慣れた人以外は遠慮した方がよいでしょう。私もその途中で道を失い今宮まで戻りました。


三光坊不動堂

今宮は嘗ては石鎚山参詣の人々の中継地であり、大正8年には36戸、178人、11軒の宿屋があったという記録があります。小学校の分校もありましたが、昭和47年に閉校されます。それから村は急激に消えて行きました。立派な石垣や宿屋であったであろう大きな構えの廃屋が数軒みられます。明治や大正の年号を見る墓も荒れ果てたまま、参る人もないのでしょう。勇み立った男の声が響く今宮を思い起こすように見おろす大杉がありました。
(今宮の項は「平成26年秋その5」の記事と重複。付近の王子社などの写真も同記事をご覧下さい。)


今宮道の入口付近から二ノ岳(だき)を望む


河口付近の加茂川の流れ

石鎚山系南端の集落へ

これまで加茂川に沿って石鎚に迫ったいくつかの
集落にも既にその色彩は強く表れていましたが、これより行く西之川、東之川は意識的な「限界集落」「消滅集落」への辿りということができるかもしれません。

(追記)限界集落、消滅集落について
限界集落という語が語られはじめてからもう大分長い時が経ちましたが、今やその限界を通り越して消滅集落(住人0(ゼロ))となった多くの山村集落があります。これらの集落は日本全国に散在すると思われます。最近、そういった消滅集落を訪ねネットなどで語る人もけっこう現れたように思えます。
私は四国遍路の途上、平成20年から27年にかけてそれら限界集落や消滅集落の道を歩くことができました。ほんの一部だけですけれどね・・
愛媛県中東部では、南に石鎚山を望む山懐、西条市の大保木、西之川、東之川そして小松町石鎚(旧千足山村)の一部です。
藩政時代や明治には多くの人の生活が営まれた舞台は今は消えてしまったのです。日本はそんな国になってしまったのでしょうか・・その衝撃・・

 行者帰還(西之川登山口)

さて、今宮から西之川に向かいます。
西之川の登山口から、多くの行者姿の人が下りてくるところでした。ここから夜明峠、成就社をまわる修行の行事のようでした。
私は西之川から更に2kほど入った愛媛県最奥の集落、東之川へ行くつもりです。
その御託を書かなければなりませんね。この日の後半の御託その2です。

民族学者宮本常一は「山と人間」(民族学研究32卷4号、昭和43年)の中で、天保末年編の「西条誌」を引いて、西条藩で水田を全く持たない山村を挙げています。それは私が今日歩いて来た地と重なっています。
前大保木山村、148軒、590人、鉄砲持ち9人、畑34石8斗。中奥山村、168軒、634人、鉄砲持ち19人、畑43石6斗。西之川山村、55軒、244人、鉄砲持ち9人、畑10石8斗。東之川山村67軒315人、鉄砲持ち9人、畑6石5斗。
畑の石高はその人口を養うにはあまりにも少ない。宮本はこれらの村では焼畑や杣仕事に依存していたと見ています。山を渡り狩猟採取生活をしていた山の民が山の上から谷に下り、焼畑や定畑で食を得る生活に移ったと想定しているのです。鉄砲持ちが多いのもその一つの証であると。
畑では粟、稗、芋、円豆(大豆)、空豆、後には茶が作られる。
例えば、平家の落人(源平合戦において平家方に与し、落ちのびた人をいう。必ずしも平氏一族ではない。)のように水田耕作の経験を持つ民が山中に移った場合、大抵、水のあるところを見付けて水田を開いているということも指摘しています。
東之川は愛媛県最奥の山村。越えれば高知県の寺川。
宮本常一は、昭和16年の暮れ、伊予小松から、おそらく私が今日辿ってきた道を通って東之川を経て寺川まで行っています。
「忘れられた日本人」にも収められた「土佐寺川夜話」のなかで、寺川への途中の山道でカッタイの老婆に出会ったことを記しています。東之川から瓶ヶ森、子持権現山を越えると、シライ(白猪)という谷を通って吉野川の源流、そして寺川です。シライとは彼岸花のこと。元々救荒植物として田の畔に植えられたものです。伊予から来た人達はシライを掘り、川の水で晒して毒を抜いてシライ餅と呼ばれる餅にして食したといいます。これも宮本が記したこと・・

以上が東之川行きの御託です。私がそこに何を見ようと思ったのか・・(巡礼の道と生活の道との補完性は、私にとって確信です。)何となく分かっていただけたでしょうか。
東之川への道の入口に行って驚きました。
右手の山が崩壊して大小の石が道を埋めてしまっています。砂防ダムが造られ、谷に橋を架け、東之川への導入道路の建設工事の最中なのです。(この崩壊は2012年9月4日に発生。幅100m、長さ150m、斜面勾配35°の大規模なもの。上流の1戸2人が孤立。今は西条市内に転居しているとか・・これは後にわかったこと。)

 東之川へ

 崩壊現場

飯場小屋の前まで行き、断られるのは覚悟の上で「東之川へ行きたいのですが・・」と声をかけます。意外にも監督員は親切。ダンプカーや重機の動きの合い間を縫って案内していただきました。遍路姿が幸いしたのかもしれません。
2年間、車の通ることのない道は荒れたところもありましたが、危険ということはありません。

 東之川への道

最初の家の姿を樹間に見て墓地。
墓石には、伊藤家、工藤家、寺川家の銘を見ます。寺川家の新しい宝筐印塔の立派な墓も。石面にはあの折敷に揺れ三文字の家紋が。 
墓地の横に40代くらいの女性が座っています。横には山のものを採取したであろうポリ袋。
「西条から来ました・・もう返るところで・・」
誰かを待っている気配でもありますが、話は滞ります。
当然でしょう。誰もいないと思った所で余所者の遍路姿ですから・・
川に架かる赤い橋の向こうに高智八幡神社、稲荷神社も。 
その先に観音堂、「敬禮救世観自在尊」の石塔。由緒を刻んだと思われる碑。
少し行くと「寺川代吉翁頌徳碑」があり、東之川の中心部でもありましょうか、数軒の家姿が集まっています。
西条市名水名木50選「おたるの滝」の石標。消えかかった石鎚登山案内地図」。「瓶ヶ森山頂まで5.8k」の標識。山道への入口の扉は閉じられています。西条警察署の登山連絡箱は色褪せて寂しそう。背の伸びた草の向こうに「寺川山荘」 「ふみおの山小屋」の看板も。
そう、ここは瓶ヶ森への登山口でもあるのです。登山観光で生きようとしていた姿も見え隠れします。
ちょっと驚くことですが、住友共電㈱の水力発電所もあります。斜面に面した家の敷地は立派な石垣が築かれています。

 墓地

  観音堂

  家

  山荘の跡

登山道入口

 登山連絡箱


発電所建屋

地蔵と石標

おたるの滝標石

草木に埋まる

戻る道、先ほど出会った女性と連れだった年長の男性にお会いします。女性の父親か舅といった感じ。
「西条の家は小いそうてのー、まだここの家の方がましや・・こうやってようさんぽにくるんや。あんたは昔ここに来られたんかのー、○太郎さんに会われたんじゃろー、そこの家じゃ・・」。

2年前、道が閉じたとき住んでいた1戸2人とは、この人たちだったのかもしれません。後でそう思いました。

 東之川で会った人

その晩、西之川の宿に泊って、女将から聞いた話、それにネット検索で集めた若干の情報を寄せ集め、東之川の歴史を辿ってみましょう。ランダムですが。

東之川には、伊藤家、工藤家が多く他に寺川家、曽我家があった。工藤家、伊藤家は源氏に追われて瓶ヶ森を越えて逃げてきた平家の落人だと言い伝えられている。(宮本常一の予測とは異なりますが・・) 観音さんの近くに元の氏神が祀られている。
頌徳碑のある寺川代吉氏は長年村会議長を務めた人。寺川は土佐にあるとはいえ、生活圏は伊予側にあったので、寺川を名乗る家がここに移ってきたのは不思議ではないと思えます。
嘗て、東之川の左右の山には鉱山があり、昭和の初期にはかなり栄えて、映画館や日用品を売る店があり、後(昭和30年代)にはバスも通っていたようです。
明治期、東之川には既に小学校があったようですが、昭和10年、高宮、東之川、西之川尋常小学校が統合、西の川に高宮小学校が開かれます。多い時は30名の生徒が通っていましたが、昭和55年に閉校。高等科は大保木にあって、東之川からは北の前田峠(東之川とは標高差200mの峠)を越えて千野々に出て通学していたようです。
天保期に67軒、315人だった人口はその後もほぼそれを保っていたようです。昭和26,7年頃より町への移住が始まり、30軒ほどとなり、平成10年には2軒、そして平成24年は前記のように1軒2人となりました。
西之川では「東之川はもう住む人もいなくなるのに、大金をかけて道路を造ってどうするの・・」という声も聞きました。
ほんとに、東之川、この村はこれからどうなってゆくのでしょうか。ただ消えてゆくだけなのでしょうか・・


東の川地図

                                              (10月28日)(令和2年4月一部改)
                                  
4-2へ続く 

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四国遍路の旅記録  平成26年秋  その3

興隆寺、香園寺道を辿って小松へ

世田山山上の栴檀寺にまいったのは、思えばもう1ヶ月も前のこと、まだ暑さの残る日でした。
山下の寺の門前、三差路の間の高台にお得意の句「迷う身を教えて通寸法の道」が刻まれた茂兵衛道標(238度目、明治44年)。そこからが、今年の秋遍路の歩き継ぎです。

楠に入り、御来迎臼井水。
「名所図会」に「臼井水、道の左道安寺門前なり、石臼の井よりわき出る。大師堂井の上にあり、標石井の道ぶちにあり、臼井水ト碑名あり」と記され絵図も添えられています。碑をじっくり眺める人も・・
その臼井水の由来が記されたという碑は(所々、臼井水・・大旱・・貴物上人・・殆ど読めませんが)今も井の左側にあります。
道以外は何も変わらぬ現在の様子が嬉しいですね。井の中には小魚が泳いでいました。

(追記)この石碑には碑文が認められた年、寛政十年(1778)が刻まれています。また、碑文は喜代吉榮徳氏による読み下しがあります。(「徳右衛門丁石の話」その25-3)

        「名所図会」臼井水の絵図

臼井水の向いの墓地の先、半ば山土に埋もれるように徳右衛門標石。劣化が著しく殆ど読めませんが「是より横峯迄四里」と。
しばらく行くと、右手の道より少し入った所に日切大師(日切山弘福寺)。屋根を覆う大木の楠に驚かされます。
ふと、参道の墓の隣の小さな地蔵道標に目が留ります。私には「白玉山五里一丁」と読めます。
その場では見当も付きませんでしたが・・後で調べてみると、その距離からして新居浜の白玉山萩生寺ではないかと。どうしてここに・・あるいは、弘法大師に特に縁の深い寺の繋がりであることかもしれません。

 楠の徳右衛門標石

日切大師と大楠


日切大師前の墓と道標

明神川を渡った橋の袂に天保13年の「こんぴら大門へ二十一里」の金毘羅道標と並んで、清楽寺(60番前札所)、香園寺、一ノ宮、西山、久妙寺、生木地蔵、大峰寺を案内する明治41年の標石。(明治18年から41年までは60番札所は大峰寺の名称。前札所が清楽寺であった。)

 
大明神川右岸の金毘羅道標と明治41年の道標

川を渡った先で道は県道150号と159号の二つの分かれます。
協力会へんろ地図では、途中で西山興隆寺への分岐はありますが、生木地蔵を経て大頭に行く道を遍路道として指定しています。この道筋は昔からの遍路道でもあったようで「生木道」と呼ばれていました。
私もこれまで3回、基本的にこの道筋を辿ってきたように思います。しかし、前記の分岐を直進し県道159号に入り、直接香園寺に向う道筋も古くからの遍路道であったようで「香園寺道」と呼ばれていました。今回はこの道を通ってみようと思います。
ただ、今日は61番香園寺、62番宝寿寺にまいり、小松の宿に泊る予定ですから、時間は十分にありますし、興隆寺はぜひ寄りたい寺です。興隆寺に寄り道してこの辺りまで戻ってくることにします。
県道150号。家々が並ぶ狭い道を行きます。立派な常夜燈を見たりすると、ここがやはり古くからの道であったと思わせられます。刈り込みの終わった田圃が拡がる安用(やすもち)の西山道への分岐には、茂兵衛道標(255度目、大正3年)。


安用、西山分岐の茂兵衛道標

徳能に「五社霊神」という小祠があります。
徳川時代の始め、年々の凶作に耐え兼ねた庄屋渡部権太夫が幕府に直訴。家族4人とともに打首となる。後の庄屋が秘かにその霊を祀ってきたという、その祠。この辺りは、大洲藩、松山藩、天領と領主が頻繁に替わった所のようですが、隣の西条藩の山村でも同様の話が伝わっています。農民の意識が高い地域であったのかもしれません。
西山興隆寺への上り道は、緩やかですが、足と心肺にじっくりと利いてくる感じ。私は4度目ですが回を増すごとにその感を強くします。
墓地の中六角堂が見えてきます。明和3年(1766)の建物で六地蔵を祀る。弧堂であるのが何とも寂しいのですが、簡潔な造りで華麗さも秘めた立派なお堂だと思います。


興隆寺前の六角堂

「弘法大師の杖と足の跡」と伝える石を見て、舟形丁石の背中を見て、空海の歌という「みほとけの法の御寺の法の水ながれも清く見ゆるぎの橋」と刻まれた碑の向こう真紅の御曲流宣(みゆるぎ)橋。
私はこの山門(仁王門)とその前後の石段が好きです。
三巡目の日記で既に書きましたが、山門の彫刻は愛媛県に、多くの寺社建築を残した長州大工の一人、門井友祐が大正7年に刻んだもの。山門の梁や柱をやや控え目に飾る、躍動する龍や獅子の姿は好ましく素晴らしいものと思えます。
興隆寺は紅葉の名所でもあります。長い参道、あの三重塔の周りのもみじはまだ緑のままでしたが、ここ1、2週間で急激に赤く染まるのでしょうか。


 みゆるぎ橋

 興隆寺門前

 興隆寺山門

 興隆寺山門

さて、ここから大明神川右岸の香園寺道分岐付近まで戻ります。
県道159号を行き、自動車道の下をくぐり右折。すぐ左折して新川を渡り、JR壬生川駅近くの西条市役所東予支所の前を通過。その先のY字路を右折して石田に入ると、俄然旧道の雰囲気を帯びてきます。
地蔵堂を過ぎ広江川の手前を右折。「トンカカはん」と呼ばれる壬生川に伝わる盆踊りが毎年行われるという闇罔(くらみつ)神社の前。少し前の道でこの辺に「へんろ石が二つあるよー・・」と言われていましたが、私は見落としました。

 闇罔(くらみつ)神社

和霊神社の石碑や五輪塔、天台寺の前を通り玉之江。中山川の土手に出ます。
JR予讃線の鉄橋が見えます。昔の香園寺道はこの辺りで川を渡っていたようです。
近くの人は「流れのあるところに板を渡して渡っていたんじゃー・・」といいます。水量が多くないときは、そうと頷ける、そんな川の様です。

  香園寺道


中山川の渡河地点

  中山川

500mほど上流の吉田橋を渡ります。
旧道はJR予讃線の線路に沿って清楽寺の近くを通ります。寺の近くでは、多くの古い墓石を見ます。
鉄道の踏切の近くにいかにも古色の道標が二つ。「左邊ん路道/施主横田屋八郎兵衛/元文四未十一月吉日(1739)」。もう一つ「左へんろみち 願主良覚/南無大師遍照金剛」。年号は読めませんが更に古そう。


清楽寺付近の墓

 清楽寺付近の道標

 清楽寺

清楽寺は、明治18年から41年まで60番前札所を名乗った寺で、境内に横峯遥拝石があります。大きな寺ですが今は訪れる遍路も少ないようで静かな風情です。
ここから三島神社の前を通り、61番香園寺、それから62番宝寿寺にまいります。
この辺り、小松の標石については、三巡目の日記にけっこう記したつもり。見落としを中心に書いておくことにしますが、あるいは重複するかもしれません。
三島神社の灯籠前と、香園寺への道の入口に円柱形の道標があります。これは利平道標と呼ばれるもので、小松に6基、東予に2基、西条に2基あるそうです。建立年は文久4年(1864)と明治14年(1881)に集中、多くは円柱形であるのが特徴。井上(和田屋)利平(1809~1890)は小松藩両替所を営んだ人。

 三島神社前の利平道標

もう一つ加えておきましょうか。
香園寺の駐車場を南に出て東に曲がる小路の先にある茂兵衛道標(193度目、明治36年)。この標石は手印が三つもある賑やかなもので、それぞれ寶寿寺、香圓寺、大峰寺を指しています。大峰寺への道は、今は個人宅の庭の延長のようになっていてちょっと通り難い。元々この道標の前を通る遍路は殆どいないでしょう。忘れられる運命の道標か。
なお、この大峯寺への道の先付近には、もう一つの茂兵衛道標(198度目、明治36)があって更に先の大峯寺(横峰寺)を案内しています。

 新屋敷川原谷の茂兵衛道標

宝寿寺への道の茂兵衛道標
(88度目、明治19年)

宝寿寺の山門入口左に4基の標石が並びます。これはよく目に着くもので以前にも記したような・・
右から「これより吉祥寺7丁」の徳右衛門標石。横峯寺、香園寺、宝寿寺を示す道標。明治14年の利平道標。そして、順吉祥寺/逆香園寺、を示す明治28年の道標。手印の方向や刻字からして、この場所に集められた標石であると思われます。

 宝寿寺


宝寿寺山門横の道標

今夜は、小松のあの肉の宿。
                                                   (10月26日)

 日切大師、臼井水付近の地図は「平成26年秋その1」に掲載しました。

 




横峰寺往還の道 

今日は小松の宿から岡村経由の道(というより採石場の道と言った方が分かりよいかも)で横峰寺に上り、湯浪に下る予定です。 
JR小松駅前の道をまっ直ぐ南下し、右にカーブ、茂兵衛道標(187度目、明治35年)を右折するのが本来の遍路道(この道は、昨日の日記で記した、香園寺を出て二つ目の茂兵衛道標が指す道です。)ですが、宿で戴く地図は、もっと東側にある広い車道をガイドします。
この道は景色がよいのです。天気の良い朝で、東の二並山辺りの山際が金色に輝くのが見えましたし、天神池を前景に望まれる小松の街の展望も見事でした。


二並山辺りの山際の輝き


天神池からの小松の街

採石場の少し手前、左手に標石。「奉納 横峰寺へ六十丁、昭和七年、西條町大師蓮花講員及地方信者一同、世話人西條寿し駒事日野駒吉」。
「寿し駒」本名日野駒吉(1873~1951)は西條吉原ですし屋を営む傍ら大師信仰に生活を懸け、横峰寺の登り道の舟形地蔵丁石の殆どを建てたと言われます。(横峰寺への道ほど地蔵丁石が揃って残されている道は他にはないでしょう。)

 「寿し駒」の道標

道は地道にかわり、林道を右に分け山道に入ります。
急坂の厳しさですが、階段が切られていない道で、この点は歩き易い。いい道です。
やがて「おこや」と呼ばれる峠。寺まで3.6kの地点。少々の平地があって、昭和20年代には茶屋があったといいます。
ここに新しそうな(昭和か?)道標「(指差し)香圓寺道 奥之院ヲ経テ一里十六丁/(指差し)香圓寺へ一里二十七丁」
少し行き28丁地蔵の向いに下部が埋まった道標。
「横峯寺及千足山村に○○/小松町及香園寺に○○/大保木青年小團/平野大保木ヲ経テ縣○○/御大典記念」。平野は黒瀬湖畔から上ってくる車道(平野林道)の途中にある山村。
ここから平野へ行く道があったのでしょう。この道標、生活道標でもあるところが興味を惹きます。「縣」の下には高知県境までの距離が刻まれているのでは、と想像します。
上り下りを繰り返し、寺より1.1kの地点、少しの区間車道に合流します。


おこやへの道

  おこや


28丁地蔵付近の道標

車で上ってきた大勢の遍路で寺は大混雑。
曇ってきたので石鎚山は見えそうにありません。星が森は諦め、湯浪への道を下ることにします。

 横峰寺へ参る

 納経所前の石柱

寺の納経所の前に「石鈇山別當横峯寺」と刻まれた石柱があります。それを見ながら関連した余談へと・・
横峰寺と石鎚山(石鈇山)との関係、江戸時代の案内書にはどのように書かれているのでしょうか。
例えば「名所図会」の六拾番仏光山福智院横峰寺の項。「・・・石鈇山遥拝所、門より壱丁下り印木より左へ三丁余上りあり、石鈇山ハ六月朔日より三日までにのぼる。此所より三里行奥前神寺(今の成就社)、是より峰まで三里八丁、かねのくさりにて取あがる所三所也。蔵王権現示現の地、役行者練修の地なり、大峰と同じ霊験の山也、鉄鳥井、大師堂・・・」と書かれる。
正に石鈇山別当横峯寺なのです。
明治初年の神仏分離に関連して修験道は廃止、別当としての横峯寺もまた廃寺とされます。横峰寺は四国八十八ヶ所遍路の60番札所としてすぐ復活します(当初は大峰寺として)が、石鎚山(石鎚神社)との関係は一応無くなったということになります。ところが今も行われている石鎚信仰における夏期大祭(7月1日~10日)では、横峰寺は重要な位置を占めています。
石鎚参拝のルートは一つ。小松→岡村→おこや→横峰寺→黒川→成就→石鎚山。一つ。大頭→湯浪→横峰寺→黒川(今宮)→成就→石鎚山。
何だかすっきりしないですね。それでいいのかもしれませんが・・
石鎚参拝ルートとしては、もう一つ石鎚神社(口ノ宮)、前神寺を発つルートがあります。明日の日記でもう一度考えてみます。

「横峰寺の縁起」について
仏光山福智院横峰寺。
「四国遍礼霊場記」では、横峯寺の縁起は弥山(石鈇山)、前神寺と同一のものを用いていると言っています。他書にも記されるように、寺は石鈇山の遥拝所とも言うべき所で、二町ほど登った「鉄の鳥居」が寺の中心であると言えます。
しかし、「霊場記」には横峯寺はその開基は石仙(他書には寂仙あるいは上仙と呼ぶ)菩薩であると記されている。(石仙は空海と同世代の人)
「霊場記」の書き様には若干の矛盾と高野山の僧としての配慮が感じられるものとなっているように思えます。


横峰寺山門(h20,10.9)

 横峰寺山門

さて、湯浪への道を下るところでした。山門より0.5k下った所に7基の遍路墓があります。正徳4(1714)、天保、嘉永、慶応などの年号、阿州や芸州などの地名を見ます。この後の山道でも文化、文政の年号の三つの墓を見ました。
そのすぐ先が古坊(ふるぼう)。観音堂があり、堂前には六地蔵。
ここには昭和25年、7世帯、28人住んでいたという記録があります。それが昭和62年に1世帯、1人、その後0に。嘗てはここから平野林道辺りに通じていた生活道も、今や草木のなかに埋もれた様子。


下り4丁付近の墓

 古坊の観音堂

 五丁の地蔵

「従峯十丁」の丁石の前「享保十六年十二月廿一日(1731) 千足山村とち之川市左ヱ門」と台座に刻まれた大師像があります。
谷に沿う道は荒れてきます。流倒木も目に付きますし、流れの上に無理やり架けたような橋も。昨夜の雨で濡れた石に乗って2度転倒しました。でも、薄いブルーに透ける水と流れは美しい。
20丁の地蔵を見ると山道の終り、四国のみちの休憩所。
道はここから大きく左にカーブして県道となります。県道の突き当たりに聳える高さの砂防ダム。見事な水のカーテン。


下り10丁付近の大師像

 荒れた道

谷川の水の流れ

15丁の地蔵

16丁の地蔵

 ブルーの水


砂防ダム、水のカーテン

舗装道となっても、丁石地蔵はづっと続いています。
左側の擁壁の中に「御来迎所文化十四年」 「横峰寺御来光出現、昭和48年」と刻まれた二つの石碑と地蔵(大師像か)。

 御来迎所

 尾崎八幡神社

湯浪の尾崎八幡神社の前を行き、県道が大きく右にカーブする手前に右の山に入る道。
おそらく、これが昭和20年代まで生活道としても使われていたという旧道の入口でしょう。旧道には丁石地蔵や徳右衛門標石も残るといいます。
以前から是非歩きたいと思っていた道でしたが、道はシキミ(樒、花柴とも)畑の中に消えていました。強引に行けば突破できたかもしれませんが、止めておきます。
その道は、馬返の大師堂の所まで続いていたと思われます。
大頭の石上神社と妙雲寺。前記の石鎚山参拝道の起点の一つとなっている所。
「名所図会」には「明雲寺石燈炉より少し入あり、不自由仁峰へ登らざる人ハ爰にて札を納む、然共大方登る」とあります。
門前には「六十番前札」の石標。「是ヨリ横峰寺迄百丁/是よりかうおん寺迄二十五丁」の徳右衛門標石。
横峰寺への上り下り、なかなか厳しいものでした。これより小松の宿に戻ります。
                                                (10月27日)

 大頭付近の地図 小松付近の地図 横峰寺付近の地図を追加しておきます。


 

 

 

 

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四国遍路の旅記録  平成26年秋  その2

高縄寺に上る、下りは暗転

前回、今年4月の区切り打ちの後半、足が動かなくなり諦めた高縄寺行き、実行することにしました。
以前、鎌大師におられた明応さんにお会いすることも目的の一つです。

高縄山の山頂近くにある高縄寺に上るルートは4つばかりでしょうか。
車道は松山市北条の善応寺から曲がり曲がりを重ねて石ケ峠を経る道。歩き道は菅沢町から「四国のみち」を経てやはり石ケ峠に達する道。それに院内から上る「院内道」と猿川から上る「猿川道」です。北条あたりからアプローチする歩道は後の二つのルートとなります。
私は猿川道を上り、院内道を下る予定でした。
高縄寺自体、伊予の豪族であった河野氏所縁の寺ですが、院内に下りてから河野氏の菩提寺であった善応寺や高縄神社にまいるつもりでした。

(追記)「仏海、木食庵について」
高縄寺への上り口、猿川は仏海の生誕地です。仏海、そして木食庵については遍路日記の中では触れておかねばならぬことに思えます。追記しておきましょう。
仏海は、宝永7年(1710)伊予風早郡猿川村(現松山市猿川)に生まれます。13才で家を出、18才高野山の籠り、24才より全国廻國修行に取り組み、25才で木食行に入る・・39才で廻國修行を成就。40才で故郷に帰った仏海は、遍照庵(水長寺阿弥陀堂、木食庵)の復興、日本廻國供養の宝篋印塔を建立、北条町内に「滝本村来光寺(奥之院:高縄寺)を1番として風早三十三所観音霊場を開設します。(現在猿川の木食庵が第1番となっている)そして、「日盛ンニシテ万人招カザルニ群レヲ成シ好縁ヲ結ブ。」(仏海叟伝)の状態であったと言われます。
その間、四国遍路21回(あるいは24回とも)を成し遂げる。44才の頃、遍路が最も難渋した地(土佐入木)に接待庵(仏海庵)を設置する。そして、その地で60歳にして土中入定をなし、即身仏となったと伝えられる。
今は遍照庵の地に木食庵、宝篋印塔、石仏等が残されています。(仏海については、鶴村松一、喜代吉栄徳氏の研究が知られる。当研究に依り、土佐入木の仏海庵については、「平成24年秋その2」に記しました。)
                                      (令和5年4月追記)


木食庵                    木食庵の宝篋印塔

さらにその先、山道の入口である猿川本村の三島神社にもおまいりします、天保12年銘の鳥居、格天井の立派な拝殿には驚きさえ感じます。

 猿川本村の三島神社

 三島神社拝殿

 高縄寺への道

道は標高920mの寺まで緩やかな上り。
途中、下ってくるオートバイ(トレール車)の若者に出会いました。階段や大きな段差が無いためオートバイで上ることができるのです。
十四丁あたりから丁石地蔵が見られ勇気付けられます。
山頂の電波塔が見えると道は平坦になり、弘法大師見返りの杉を過ぎ、千手杉の前。
この杉は多数の大枝が直立状に上に伸びる樹形。高縄寺の本尊である十一面千手観音を写した形の不思議。杉の下には大きな本堂の屋根。
高縄寺は天智天皇の時代、越智(小千)守興が山下に開いたと伝えます。その後、高縄山山頂に近いこの地に移り、河野家累世の祈願所になったといいます。
寺名、河野山高縄寺は弘法大師の命名と。境内は弘法大師の影も色濃く残っています。
昨日の日記でも少し触れましたが、東方に隣接する楢原山を始め高縄山系の山々は古くから修験の地であったいわれますが、この寺はその関わりは無かったようです。
越智氏は今治を中心とした国づくりから、新しい「河野」姓でこの北条の地での繁栄を願ったとする説は有力であると思えます。
越智玉興がこの地の水を愛で、「この水の可なること、予が里よりす」と言ったことから「水」「可」「予」「里」を組み合わせたのが「河野」姓の起こりと伝わります。今もこの高縄山に源とする水は河野川としてその郷を流れています。

 千手杉

 高縄寺本堂

 高縄寺本堂


高縄寺本堂、折敷に三文字が見える

ご住職の明応さんも相変わらずお元気そうでした。
醍醐寺ご出身の方。この寺の4月の縁日(桜まつり)や年末、年始には、野外における護摩法要(柴燈護摩)を積極的に採り入れられているようです。若い人や女性の参加者も多いと話されます。自然との関わり、参加実践型、女性重視といった修験道の底流が受け入れられているのでしょう・・これは私の思い。
本堂の屋根頂部や扉には、あの「折敷(おしき)に揺れ三文字(あるいは波三文字とも)があります。この寺紋は、大山積神を祀る大山祇神社(大三島神社)、三島神社に共通する神紋でもあり、また河野家(伊予越智家もまた)の家紋でもあります。河野家は鎌倉時代に幕府より「折敷に角三文字」紋を賜ったともいわれます。

ここから院内道を下るつもりでした。 
暗転! 下り道を間違え遭難。何故道を間違えたか・・それは言わないことにしましょう。
とにかく、尾根から尾根へ、尾根から谷へ。数度5mくらい滑落したでしょうか。道を間違えたら戻る・・が鉄則ですが、上り返すことは不可能でした。
幸い携帯電話は通じました。警察の車に収容されたのは猪木という集落の最奥の留守家の前。もう真っ暗な時間でした。
後で調べると、何と猿川から山一つ隔てた谷でした。
警察、消防には多大な迷惑をかけました。それに私の精神的、肉体的ダメージは相当大きなものがありました。

その日、まいる予定であった善応寺、高縄神社はダメージがやや薄らいできた後日、以前から気になっていた北条港沖の鹿島、それに大三島の大山祇神社を加えて訪ねることができました。ここに載せておきます。
                                                   (9月29日)

善応寺。
寺の前には「河野氏発祥之地」の碑があります。風早郡河野郷土居(現松山市北条善応寺)は中世伊予を代表する豪族、武士、河野氏の発祥地とされます。
系図によれば、初代河野玉澄(越智守興の落胤とされる)より始まり、23代が源平の戦いで勇名を馳せた通信、27代通盛が1335年一族の氏寺として、好成山善応寺(臨済宗東福寺派)を創営したと伝えます。盛時は七堂、十三塔頭を有し、面積も60町歩に及ぶ大寺であったといいますが、河野氏没落後荒廃、江戸中期に至って塔頭の一つ明智庵の跡に現在の善応寺が再建されます。
現在の仏殿には、創建当時の釈迦如来、脇侍の文殊・普賢菩薩が座ります。やや硬い表情ですが、鎌倉仏の特徴をよく表していると言われます。
境内左手に通盛の墓。河野氏没落後の再建ということからか、墓地の先祖慰霊塔以外には、あの折敷に三文字も見られず、河野氏の影は薄く、もう時の彼方に遠ざかった感じでした。

 河野氏発祥の地

 善応寺


善応寺からほど近い宮内に高縄神社があります。
神社の由緒書きにはおよそ次のようにあります。
「小千(越智)益躬が599年高縄山頂天神ケ森に三島大明神(大山積神)を祀る。これが当神社の創建。河野親清が1136年現在の地に移す。河野三島宮、河野新宮とも呼ばれた。河野氏没落とともに衰退し、江戸中期より復興、明治3年に社号を「高縄神社」と改め、河野一族の鎮守としての地位を占める・・」
ここもまた越智・河野氏に関わりの深い神社であったのです。少なくとも由緒書きにはそのように・・
ここでは「折敷に揺れ三文字」が溢れています。その神紋は河野氏家紋に拠るのではなく三島大明神に拠るものでしょうが。
参道鳥居から神社を見ると、その後方に高縄山が見えます。高縄山と神社の関係を表しているようです。
鳥居は平成21年の新しいものですが、狛犬には天保9年の銘を見ます。
その参道で、近くの幼稚園の園児達が神社にまいるのに出会いました。
「こんにちは・・こんにちは・・」 今や、神社は寺よりもづっと周りの人々に寄り添ったものになっているのかもしれない・・と思ったのでした。


高縄神社の鳥居、後方左鉄塔が高縄山

 高縄神社

 絵馬殿

神社におまいり・・


北条の街に戻ります。
今年の春の遍路で北条に泊った時にもちょっと書きました。そのお釜を伏せたような形からもづっと気になっていた島、鹿島です。

 鹿島

島に渡る船には、魚釣りの人が3人。
鹿島とは鹿の島と思っていたら、まんざらそうでもないようです。鹿島には、茨城県の鹿島神宮を勧請した鹿島神社があり、神社の横に要石があります。この要石は神社の勧請と同時だとも、またそれ以前だとも言われています。
行基の作とされる日本図に示される日本列島は、龍体に囲まれています。龍は神々が日本の国土を守っていることを象徴する姿とも、また天変地異を引き起こすことを象徴する姿とも言われます。
日本の国土を大地の奥底に繋ぎとめるものが各地の聖地に存在する。それは龍の動きを抑えるものであったとされる。(近世、龍の一部は大鯰に変身する。)鹿島神宮の要石や琵琶湖の竹生島はその重要なもの。
この鹿島の要石は、鹿島神宮の要石に導かれたものか、あるいは竹生島との地形の類似性から導かれたものか・・様々な謎の不思議を思い描かせます。
神功皇后が朝鮮出陣の際立ち寄り、戦勝と道中安全を祈願したとの伝説を持ちます。中世には河野水軍の重要な拠点であったといわれます。

 鹿島の要石

私は鹿島の山頂(114m)に上り、また周囲1.5kの島回りの海辺の道を歩きました。
海の水は驚くほどの緑色でしたし、波の動きも瀬戸内とは思えない勢いを感じさせるものでした。


鹿島の上から見た北条

 鹿島の浜

 鹿島の浜


さて終りに大三島の大山祇神社も加えておきましょう。
ご承知のように現在の55番札所は今治の南光坊ですが、明治の神仏分離以前は、隣にある「別宮」あるいは「三島ノ宮」と呼ばれる神社でした。(今は別宮大山祇神社と呼ばれる。) 
しかし、澄禅も三島ノ宮の項に「爰に札ヲ納ルハ略儀ナリ」と、真念も「是ハミしまの宮のまへ札所也」と記しています。大三島の本社が本当の札所であると言っているのです。
大三島宮浦港の神社一の鳥居の横に「是より別宮迄七里」の徳右衛門標石があります。本社に参る遍路も多かったであろうことは、この標石からも想像されます。
大三島の大山祇神社は全国の大山祇神社、また四国を中心に拡がる三島神社の総本社とされます。祭神の大山積神(天照大神の兄神とされる。三島大明神とも称す。)は、山の神、海の神、戦いの神とされます。
神社の縁起は諸説あって定まらないようですが、大山積神の子孫と称する小千命(越智氏の祖とされる)が百済から摂津三島江に勧請し、それが当地に移ったとする説が有力のようです。(594年頃) いずれにしてもわが国屈指の古社、大社であることは間違いないようです。
私は何度目かのおまいりですが、その風格ある社殿、特に楠の森に囲まれた白砂の境内には感動を覚えるほどでした。
その昔、今治の波止浜から船に乗って詣でた遍路はきっと寛いだ時間を持ったであろうことを想います。
そのとき、楠の御神木の周りを少女達がいつまでも走っていました。豊かな神の空間を感じます。

 大山祇神社

  総門

 白砂の境内


神木の周りを走る少女

 神門

 拝殿

 神の楠

 

 

 

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四国遍路の旅記録  平成26年秋  その1

今治の神と仏そして龍、泰山寺、龍泉寺、栄福寺、仙遊寺、国分寺、栴檀寺奥之院

JR今治駅前で遍路装束に着替え、一度思いきって背を反らしてから56番札所泰山寺に向って歩き始めます。次の日、とんでもないトラブルが待ち構えていようなどとは予知する術はありませんから・・ね。
そういうこともあって、今回はまたいつもにも増してくだくだとよしなしごとを書き連ねます。おゆるしください。
これまで3度のおまいりでは格別目に留るものではなかったのですが、この度は泰山寺の大師堂の柱に掲げられた言葉、不思議にも気になりました。
「同行二人之愛」 「相互供養之恩」 (だと思います)
大師堂の前で暫く考えておりました。仏教ではよく「相互礼拝、相互供養」ということを言いますね。これは、仏、衆生、菩提心の相互性、平等性を表すと言われます。それと同様の意なのでしょうか・・

泰山寺大師堂 


龍泉寺への道


龍泉寺の鏝絵の観音さん

門前の案内に従って奥の院、龍泉寺におまいりします。私は初めてです。
泰山寺から歩いて5分ほどの近さですが道標もしっかり・・
この地には元々行基が開いたと言われる天聖院(後に千寿院)という寺があり、大山積神の長女磐長姫の本地仏十一面観音を祀り(穴場様と呼ばれ)婦人病に験ありとか。その後、寺が他地より移転、龍泉寺と称するようになったとか。
最近TVで紹介された本堂正面の鏝絵(こてえ)の十一面観音が珍しく人気を呼んでいるようです。本堂が建てられら大正期のものでしょう。なかなか見事な観音さんです。
寺の横に「今治で一番小さいコーヒーの店」と称する「阿奈波」。阿奈波は別宮大山祇神社の境内にある神社の名。祀られるのはもちろん磐長姫。(阿奈波=穴場) お店に寄れば、少し上に書いたその謂れなど、きっと詳しく伺えるでしょう。
龍泉寺の境内でもう一つ気になったのは、役行者(神変大菩薩)の石像。
そういえば泰山寺にもありました。その縁とは如何に・・
今治で最古の寺と言われる石中寺(今治市中寺)に昔、役行者が寄り石土山に入り瓶ケ森で蔵王権現を感得し、寺に祀ったと伝えられます。この地と役行者(後に修験道と呼ばれる教え)との関わりの深さを感じさせられます。
おっと忘れるところでした。泰山寺の駐車場の隅に横倒しで置かれたままの徳右衛門標石について書いておきましょう。
この日記ではもう何度か書いたような気がしますが、武田徳右衛門は越智郡朝倉上之村(現今治市朝倉上)の生まれ。寛政6年(1794)から文化4年(1807)の間、四国八十八ヶ所霊場の道に標石を設置します。(現在まで129基が確認されています。)生地に近い今治の道には、特別の思いを込めた標石が残されています。泰山寺の前の標石には「(大師像)(手印)/五十五番へ(手印)願主 徳右衛門/五十七番へ(手印) 智玉童子 法林童子 智浄童女 観性童女 梅芳童女 法了童女」とあります。徳右衛門が標石建立の機縁となったといわれる夭折した6人の子供(金治、助七、おもよ、おひち、こいそ、おいし)の戒名が彫られているのです。
この標石、どういう訳か長い間、駐車場のコンクリートの上にねかされたままです。残念なことです。

泰山寺から57番栄福寺に向う道は、天保15年の「遍ん路道」と刻まれた大きな道標に従います。
以前は地道だった遍路道は立派な舗装道になっていました。私は彼岸花の咲く水路沿いの地道に寄り道をしたりします。願わくばこんな道を歩きたいですね。
先の四ツ角に「・・八幡へ十三丁/右 和霊大明神三十丁 奈良原本社五里半/弘化四丁未春・・」と刻まれた静道道標、その横の小祠の中に手印の刻された地蔵があります。
和霊大明神は玉川町法界寺にある神社、奈良原本社は純川温泉を経て、楢原山山頂(1041m)にある、役行者を開祖と伝える神社です。


栄福寺への道、こんな道を歩きたい

小泉の静道道標

国道を横切ると、左側に遍路墓、文政、嘉永の年号を見ます。
へんろ小屋を経て蒼社川の河畔。土手に四基の舟形地蔵、川の方向を指す手印の静道道標など。風に揺れるコスモスの中、静道道標には「遠山に眼のとどきけり秋の月」の句。
昭和の初期までは、飛石に板を渡して対岸に渡っていたようです。対岸の土手に「へんろ道(手印)五十七番栄福寺へ十丁/五十六番泰山寺へ八丁・・」と刻まれた大正11年の道標が残されています。
今はよほどの渇水期でない限り渡河するのは困難でしょう。上流の橋を渡ります。


蒼社川左岸の静道道標


蒼社川右岸の道標

ここから栄福寺への道筋は、協力会へんろ地図には山上の石清水八幡に上る道と、直接栄福寺に向う道の二つが示されています。今は後者の道を採る遍路が殆どでしょうが、八幡宮が札所であった昔(江戸期)はどうだったでしょうか。別当寺の所在とともにみてみましょう。
澄禅「四国遍路日記」(1653)では「・・辰巳(南東)ノ方エ往テ河ヲ渡リテ南ノ山ニ上ル。山頭ニハ八幡宮在リ。・・此山ヨリ見バ今治三万石ヲ目ノ下ニ見ナリ。誠ニ碁盤ノ面ノ様ニテ田地斗也。真中ニ河在、北ハ海手向ヒハ芸州ナリ。・・」と。
寂本「四国遍礼霊場記」(1689)には「・・神社に仕える寺は長福寺。今は浄寂寺である・・」と。
能寂寺文書によれば「寛文年間(1661~73)に能寂寺を浄寂寺に改め石清水八幡の別当寺となった」との記録。
「四国遍礼名所図会」(1800以前)には「五拾有七番八幡社別当栄福寺」と標記し「越智郡いかなし村山上へ三丁上る、佐礼迄廿丁・・本社八幡大菩薩、阿弥陀堂、本尊阿弥陀如来海中より出現・・是より一町下り別当栄福寺大師堂、是より佐礼迄十八丁なり・・」と。
また、「伊予の遍路道」(平成13年度、愛媛県生涯学習センター)には「長福寺が別当となったのは貞享年間(1684~88)その後幾度か寺が替わり栄福寺が別当になったのは寛政4年(1792)・・」と記され、澄禅の時は別当寺は無く(あるいは能寂寺)、「霊場記」の時には長福寺から浄寂寺に替わり、「名所図会」の時は別当寺が栄福寺であったと整合できます。また、「霊場記」の絵図や地元の方が「寺は山上から下りてきたと聞いとるよ・・」と語るのを聞くと、栄福寺に移る前の寺は山上にあったと想像されます。(浄寂寺は神社南側に現存します。)
以上より、蒼社川の渡河地点からほぼ真南に八幡山の山下に、山を上り八幡宮へ、そして山を下る道筋がより古い遍路道であったと推定できます。(協力会のへんろ地図に示された道筋とは異なります。)
それを裏付けるように、山へとり着き左折する地点に「(手印)遍んろ・・」と読める石、鳥居の前に万延元年の「伊豫一社五十七番石清水八幡宮表口の碑、左側の草むらに二つの遍路標石(一つには「是より二丁・・」の刻字が読みとれる)が残されています。
八幡宮への上り道は、昔は地道であったでしょうが、今はすべて石段、標高差100m近くを一気に上る厳しい道です。


石清水八幡表口の鳥居

 鳥居横、草叢の道標

 石清水八幡宮

一方、八幡山の山裾を廻って直接栄福寺に向う道の分岐には、茂兵衛標石(100度目、明治21年)、上部が欠けた静道道標、それにもう一つ小さな道標が並んでいます。静道道標は「・・い山へ廿丁」とあり、「されい山へ・・」と想像される仙遊寺(佐礼山)を指す道標と思われています。
栄福寺の参道入口には、茂兵衛標石(173度目、明治32年)、少し上った寺入口に「是よ里佐禮山まで二十丁」の徳右衛門標石。これには徳右衛門の長女「於くら」の名が刻まれています。
栄福寺の本堂の回廊には、長らく箱車が置かれています。以前には説明書きもあったように記憶しますが、遍路の功徳を訴えるものでしょう。狭い境内ですが、大師堂に覆い被さるような背後の竹林の様も強い印象を与えられます。

 栄福寺入口の徳右衛門標石

栄福寺大師堂

栄福寺大師堂

寺の下のお店で地元のおばあさんにお会いしました。「おへんろさんはお寺だけ・・ワシらは氏神さまにもおまいりしますけー・・」 あの石段を上って八幡さまにもまいったという。考えてみれば、神仏習合の風習の根強さとある意味での合理性を感ぜぬにはおれません。
栄福寺から犬塚池に沿う仙遊寺への道には、享保15年(1730)の覚心の地蔵丁石が並んでいます。
山道を逞しく日焼けした若者の遍路が大きな野宿装備を背に駆け抜けてゆきました。

 覚心の地蔵丁石と遍路墓


犬塚池の畔、仙遊寺への道を行く遍路

地道から車道に入って少し行くと左側に静道道標、「おのづからこころとどくや花の山」の句。
仙遊寺の仁王門の少し手前、国分寺への道の分岐もあるややひらけた場所には多くの石仏や道標があります。少し手前の安永2年(1773)銘のある地蔵、静道奉納の地蔵、台座に「よ記とこへこころ志図めて花のや満」の句、徳右衛門標石「是より国分寺迄一里」、宝暦12年(1762)銘の日本回国祈念地蔵など、特に心に残る表情との出会い。

安永2年の地蔵

静道奉納地蔵


日本回国祈念地蔵

 徳右衛門標石


仙遊寺への道を行く遍路

 放生池の龍

その同じ場所、寺に向って右側に放生池という池があります。「放生」とは、捕えられた龍を放つという意があるとか。少し上にある大師加持水として地より放たれた水(龍)は、蒼社川と頓田川の間の龍登川という川の水源であったといいます。(今の龍登川は護岸が施され、田畑の中の水路という感じの小さな川で流路も追えなくなっているようですが・・)
一方、龍登川はその名が暗示する伝説を持っています。「龍女が海から龍登川を伝って佐礼山(作礼山とも)に上り観音さんを刻んだ。(一刀刻むごとに三度礼拝、これが作礼山の名の由来と)河口近くの衣干という地名は龍女が衣を干して休んだ所。また、拝志という地名は龍女が川を下る時、刻んだ観音さんを何度も拝した所・・だと。」(「今治地方の伝説」(今治商工会議所)より)
放生池の畔には龍を祀った祠があります。古の龍と水に関わる生々しい諸業に思いを派すに相応しい場所です。
仁王門の立派な仁王に励まされ、急な参道を上ります。途中で大師加持水を一杯。石段の上に修行大師像が見えてくるのはやはり感動的な風景です。でも、不思議にも後姿。周りには八十八ヶ所本尊石仏が並びます。
団体バスが入ったようです。納経は1時間待ち。境内の標石などゆっくり見ておきましょう。
本堂横に真念石。「右されいじみち 左こくぶんじみち」と刻されます。放生池前の国分寺への道の分岐点にあったものをここに移したようです。
「入相のかね惜しまるる桜かな」の句を納めた静道道標もあります。


仙遊寺仁王門の仁王

参道を上って・・


仙遊寺の修行大師

仙遊寺の修行大師


仙遊寺の修行大師

澄禅は「佐礼山」の項に「・・大師此観音ノ像ヲ海中ヨリ求サセ玉イ、山ヲ開キ安置シ玉フト也。・・寺ハ仙遊寺トテ山下ニ在・・」と記します。伝説の龍女の業はここでは大師の業となっています。そして仙遊寺という寺は山下に。(「霊場記」の佐礼山図もそのように描かれる。)江戸期には、佐礼山に観音堂があり山下に仙遊寺という寺があったということでしょうか。

放生池の前より国分寺道に入ります。
五郎兵衛坂に「国分寺四十五丁」、見事な彫りの地蔵丁石。竹林寺への道の分岐に「・・智慧文殊尊道」を示す立派な道標など、そして山道の出口に「遍んろ道/されい山道」を示す嘉永5年の道標。これと五郎兵衛坂の丁石には、施主として仁右衛門の名が見られます。
その先、小堂のなかに手指しを刻んだ地蔵。供花のコスモス・・


五郎兵衛坂の地蔵

山道出口の道標

 手指しの地蔵

山道を出て、ほぼ真っ直ぐ北東に向う道は彼岸花の道。その道には多くの道標が見られます。それらの多くは嘉永五年三月のもの、私は4基を確認しました。「名所図会」に「松木村、川 常に河床とふる・・」とあるように、江戸中期までは道は整備されておらず、嘉永期に至って整備されたものと思われます。
先に嘉永4年の静道道標「雪とけて元の山家と成りにけり」。
右折して県道196号の道。蒼社川を渡る国分寺橋近くの土手にも静道道標、国分寺八丁、「竹に宿る雀も見えて夏の月」。さらに国分寺近くに「左邊ん路みち」(右を左の彫り変えた風)の真念石があります。

彼岸花の咲く

 新谷の道標(嘉永5年3月)

(追記)「へんど道」道標
「へんろみち」ではなく「へんど道」と彫られた道標、いくつか見られます。
もともと伊予、宇和島辺りの方言であったとか。乞食、ものもらいの意もある若干蔑視的言葉であると思えます。
写真は今治の国分寺近くの道に見られますものです。幾度か場所を変えたものと思われ、本来左を向くべき「指差し」は右向き。
ふっと思いを留まらせる道標でもあるのです。

 「へんど道」道標

59番国分寺。
この寺は江戸期には逼塞していたようで、「霊場記」には「天下の国分寺の一つだが今は茅葺きの小さな堂となっている。心が痛む・・」といった意味のことが記されています。「名所図会」の時代になると、お堂の再建も始まっている様子がその絵図から覗えます。
今は、握手修行大師、体の悪所を治す薬壺、スイッチにより水が出る手水など目新しい趣向で人気を呼んでいるようです。
境内石段の上に「是より横峯迄六里廿八丁」の徳右衛門標石。
参道(本来は裏参道)の出口に「南朝之忠臣従三位脇屋公巡道」と読める道標があります。これは真念の「道指南」や「霊場記」、「名所図会」が揃って新田義助の墓(寺の2丁東)として紹介するものです。脇屋義助は新田義貞の弟で南朝(宮方)のために日本各地で戦い、1342年今治に来て病死したと伝えます。
新田将軍への期待は、思いのほか根強かったようで、この地と新田の地、群馬県太田市との交流は現在も続いているということです。ちょっと驚くべきことです。

 国分寺にまいる

参道出口から県道を渡った所に「六十番大峯寺」を案内する茂兵衛標石(152度目、明治29年)。
ここから県道を外れ南西に100mほど、四ツ角に今治最大の地蔵道標といわれる立派な地蔵があります。光背に「遍んろみち 天保十五辰正月、願主大坂真徳寺・・」とあります。


天保15年の地蔵道標

近くには「歴史のこみち」の案内も。今の遍路は多く県道を行くでしょうが、この四ツ角を左折、桜井小学校の手前で県道に合流する道が旧道です。
小学校の前に茂兵衛標石(198度目、明治37年)。その先には最南の静道道標。

国分寺の少し手前、頓田川を上流に沿って6、7k行けば朝倉。ここは伊予最古の豪族である越智(小知)氏の故地といわれ、水之上の氏神飯成神社の別当寺であった光蔵寺は越智氏の氏寺であったと伝えます。
奇しくも武田徳右衛門の墓所もそのすぐ近く。実は、時間に余裕があれば、この辺りも歩いてみたいと思っていたのですが・・そんな時間は無さそうです。
国分より先、長沢、湯ノ浦、孫兵衛作を経て、私は世田薬師にまいります。
途中、長沢の道の駅の裏の旧道に「是より横峯迠五里」の徳右衛門標石があることを書き添えておきましょう。
一般には世田薬師、正式には世田山医王院栴檀寺。行基の開基と伝えます。
元々、標高339mの世田山の山頂に近い場所にあり、昭和2年に山下に大師堂と三宝荒神堂を移し、今も山上に奥の院と称し旧本堂が残っています。
奥の院までは約1kの山道。このくらいなら行かねばならないでしょう。
上り口に藁帽子をかぶった可愛いい地蔵。私は8年前の初回の遍路でここを通っています。その記憶と寸分違わぬ地蔵との懐かしい再会でした。


奥の院参道の地蔵

奥の院への道

坂道には丁石地蔵があります。丁石よりもっと大きな数を刻んだ地蔵もあります。何を祈念する地蔵でしょうか。
0.8kほどで日本一体海上交通安全と説明のある船曳地蔵。
その右に5mはあろうかという不動明王の磨崖仏。足場もありまだ制作中と見受けます。今年82歳の老人が10年前から彫り続けているとか。山を下った後、地元の人から聞きました。
200mほど上ると、長い石段の上に奥の院が見えてきます。
石段の真ん中に触ると腹をこわすという「腹こわり石」。中央に旧本堂、右に不動堂。
栴檀寺の本堂であったというだけに、簡潔な装飾を施した立派なお堂です。
向拝に龍がいます。左甚五郎作と伝える、伝説の胴を切られた水呑み龍のレプリカでしょうか。
「龍は夜になると孫兵衛作の医王池(蛇越池とも)に水を飲みにくる。村の人は、夏になり田に水がいるとき水を飲まれては困るので、龍を八つに切って「かすがい」でとめてしまった・・」という伝説。
寺に伝わる「きゅうり封じ」の風習といい、この龍の話といい、何ものかを封じることの譬えであると説く市井の研究者もいます。さてさて、伝説の奥は深いようですね。

船曳地蔵


奥の院への石段

 栴檀寺旧本堂

旧本堂向拝の龍

旧本堂前に、楠村忠左衛門、天明八年(1788)と彫られた手水鉢。長い石段が寛政二戌年(1790)に造営されたという碑もあります。
不動堂の横に「大館伊豫守源氏明朝臣之墓」と刻まれた墓があります。大館氏明は新田義貞の甥で伊予の守護に任じられ世田城主。国分寺の所で記した脇屋義助らとともに南朝(宮方)のために戦ったが、義助が病没した同じ年、世田山の合戦で北朝方に敗れ、この地で果てたという。(世田山の合戦では河野通朝(28代)も南朝に組みして討ち死にしたという記録も。)
200mも行けば、世田山頂。そこからは、しまなみ海道の橋々も見えるといいますが、秋の日は頼りない、山道の足元の薄暗さ。西条市とその沖の青い海を展望する所まで行って、山を下ることにしました。

西条市沖の海


                                                   
(9月27日)

栄福寺・仙遊寺付近の地図  孫兵衛作付近の地図 栴檀寺付近の地図 を追加しておきます。



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四国遍路の旅記録  平成26年春  その5

松山から今治まで、石手寺、太山寺、円明寺、鎌大師、窓坂、延命寺、南光坊

石手寺から52番太山寺に行く道筋は、へんろ地図に拠れば大きく3つに分かれるようです。
第1は、道後温泉の先から北に進路をとり、祝谷橋から山田池、吉藤池などの溜池の傍を通り、潮見小学校の南から国道を横切り、安城寺町を経て太山寺町に入るルート。
第2は、道後温泉から西に行き護国神社、来迎寺の傍を通って国道196号に当って右折、国道の東の川沿いの道を潮見小学校まで行き、第1の道に合流するルート。
そして、第3は、第2のルートの国道交差を西進して、JRみつはま駅付近を通って県道19号、183号を通り、直接太山寺の一の門に出るルート。
私は、これまでこれらいずれのルートも通りましたが、古くから多くの遍路が通った道、即ち古い道標が多く残る道と言えば、それはもう第2のルートです。今回はこのルートを行きます。

道後温泉のすぐ傍、石手5丁目に1.5mを超える標石。茂兵衛標石としては最大のもの。117度目、明治24年2月。この石には茂兵衛を含め多くの人が施主として刻まれています。
護国神社の鳥居の前に茂兵衛標石、133度目、明治26年12月。
山頭火一草庵には忘れず寄ります。
清水4丁目の交差点には、茂兵衛100度目、明治21年5月。その向いに大正9年の道標。これは厄除け延命地蔵尊不退寺の案内も兼ねたもの。
ここから道を北にとり、来迎寺の境内にあるロシア人兵士の墓地を訪ねます。
ここには、日露戦争時に亡くなった98人のロシア兵士の墓があります。
当時の日本はロシア捕虜を優しくあつかったようで、案内板には「・・その収容所は各地にあったが、松山がもっとも有名であり、戦線にいるロシア兵にもよく知られていて、かれらは投降するということばをマツヤマというまでになり、「マツヤマ、マツヤマ」と連呼して日本軍陣地に走ってきたりした。」と、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の一節が引かれていました。
供えられた白い花が鮮やかでした。

 山頭火一草庵

 ロシア兵士の墓

国道との合流地点の少し手前、南から旧今治街道がのびてきて、小さな橋(御幸橋)を渡った所に、2mほどの笠付で「(手印)へんろみち/南御城下道」と刻す大きな道標があります。
その先は国道に沿って、水路を隔てた東側の道を北上します。
国道と分かれて潮見小学校の角、陸橋下の交通量の多い場所に、茂兵衛標石100度目、明治21年5月。この石には、釈陶庵俊因の作で「世の中に神も佛茂奈き毛の載(を)まれに志んずる人にこそ阿連」と歌が刻まれています。
その横に小堂。花を供え水をやり、熱心にいのる婦人がいます。
傍らの石碑には「お塚さま由来記」として、およそ次のように書かれています。
「いつの頃よりかここに一基の塚があり「無縁亡魂回向塔」と刻まれていた。幕末の時代一人の遍路が行き倒れここで死んだ。土地の者はここに葬り、盛大に祀った。ある時足なえの巡礼がここで祈った処立ちどころに回復した。それより脚を守る仏として尊信を集めている。」

 鴨川町のお塚さま

私は、ここから国道を横断して大川左岸の道(県道40号)を行き、安城寺町の県道184号に右折しました。その角に茂兵衛標石、100度目、明治21年。これは新しい地蔵、青痲三光神社の標石と並んでいます。
県道184号から太山寺町方面への曲りも茂兵衛標石、134度目、明治27年4月が教えてくれます。
しかし、国道を横断してから、もう一つの道があったようです。大川の右岸の土手道を行き左折して安祥寺参道を経る道です。この道には享保大飢饉の供養塔なども残されて、こちらの方が旧い道であるようです。ちょっと残念でした。(二つの茂兵衛標石が示す道を選んだ訳ですが、実は、この後の道でもはたと気付くことがあるのですが、茂兵衛さんはどうも新しい道がお好きなところがおありのようですぞ・・)
いずれの道も、松山北中学校の前を通ると、正面に大将軍神社。私の好きな神社です。
ここで休憩。山麓をまわるように少し上ると、亀が一斉に飛び込む溜池の堤の道。
下ったところの家の塀の角に、嘉永6年の標石「(手印)へんろ道/(手印)逆遍路道」。太山寺の一の門もすぐ。
一の門の左に自然石の道標と並んで茂兵衛標石、100度目、明治21年5月。この石も釈陶庵俊因の歌「阿ハ禮可し今世に迷ふひとひと越堂須具流石尓道志る遍けり」(あわれかし このよにまようひとびとを たすくるいしに みちしるべけり)が付けられています。
52番太山寺。
立派な二王門の横の桜が何とも見事でした。
長い参道を行くと山門。その石段下に、徳右衛門標石「是より圓明寺迄十八丁」。
国宝の本堂。青い空の前に拡がる広い瓦の並びを見ると、心は遠くに行きそうな気持ちです。
ここで、あのベルギーの若者にまた会いました。私の読経中、となりで腰を降ろして、ヨーガでするような独特の印を結んでじっとしていました。

 太山寺二王門

 太山寺本堂

53番円明寺までは2.5k、直ぐです。
円明寺は八脚門や境内の中央に瀟洒な中門が置かれ、独特の雰囲気を持っています。

(追記)「キリシタン灯篭」「キリシタン碑」について
 円明寺の境内にあるキリシタン灯篭と呼ばれる石造物について、私はこれまでの日記のなかで殆ど触れることがありませんでした。しかし、遍路仲間の間でも結構話題になるものですし、それに「隠れキリシタンが礼拝した・・」などとまことしやかに書いた案内書などもありますので、ちょっと追記しておくことにしました。
 「キリシタン灯篭」とされる石造物の隣には解説板が置かれ、そこには慎重に「高さ四十cm 合掌するマリア観音とおぼしき像が刻まれ隠れキリシタンの信仰に使われたとの説もある」と記されています。
 十字架状の笠石、マリア像にも見える像の陽刻。キリスト教に関係した遺物であることは間違いないと言われます。あるいは墓石ではないかと。一方で、この種の石造物は「織部灯篭」とも呼ばれます。茶の湯の異国趣味の延長線上で、笠石の上に灯篭部を載せて庭に置かれていたとも。
この辺りが最も有力な説ではないか・・と思えるのですが。(H28.8)
さて、伊予には隠れキリシタンに係わる遺物とされ、一部で「キリシタン碑」と呼ばれる石造物があります。これは高縄山周辺の北条町、菊間町、玉川町の山間部に限定して残るもので、一石五輪塔の一面に円形に包まれた顔が彫られたもの(Ω型石仏などとも呼ばれる)。石材は安山岩であると言われ石工の手を経ない稚拙な彫り。隠れキリシタンが密かに刻み礼拝したといわれるに相応しいと思われます。江戸時代初期、この地方には相当数のキリスト教信者が存在したとするイエズス会記録もあり、これらが隠れキリシタンの遺物であるとする説の有力な支えとなると思われます。(H29.7)

  
円明寺を出て、大川をへんろ橋で越える道は新しい道の付け替えで、様変わりしています。私は古い地図しか持っていなかったため迷いました。注意が必要です。
馬木町にある「あがた圓明寺(54番延命寺のこと)を案内する文久3年の標石。さらに進んだ堀江町のみやしま出舟所も案内する茂兵衛の最初期の標石。これらについては三巡目の日記で詳しく記したようですから省略しましょう。
ただ、この茂兵衛標石の少し手前、光明寺の前に享保の大飢饉の供養塔と追遠之碑があること、加えておきましょう。
「この堀江村では人口800人余りの半数以上が餓死した。人々に分ける麦ぬかを積んだ船が堀江港に着くと、大勢の人が集まって来たが途中で野垂れ死にする人も多かった・・」などと書かれています。

(余談)

私は、この度の旅でも多くの遍路墓を見てきました。それらの多くは、その地の人によって葬られ、遍路道の畔の草に隠れるように立っていました。
お寺の境内で、そういう墓を見ることはありませんでした。
遍路だけではありません。飢饉などの災害で一家全滅、寄る辺の無くなった死に対しても同じであったかもしれません。
祈りを捧げながら、やっと辿り着いたお寺でも、その最後を受け止めてもらえなかった人たち。
それは社会的常識であったと思う反面、一種の不条理に似た気持ちを抱くのです。
宗教(本来)は、生者のためのもの、それは分かりますけれど、死は生から連続した最後の姿ですから・・
宗教というものが、お寺というものが、その多くが、もっぱら為政者のために役割を分担してきた時間があまりにも長かった・・その不幸を考えさせられます。
・・・・・・・・・


海岸の道に出ました。左に見える海は斉灘(いつきなだ)。
空は晴れ渡ってはいませんが、波はなく水はとてもきれいです。
ベルギー君が追いついてきて、少しの間並んで歩いて、また追いこして行きました。
「海の向こうはヒロシマですね・・」
と言ったようでした。

 斉灘の海


 海の向こうはヒロシマ


 海辺を行く、先はベルギー君

足が相当痛んできましたが、私は、粟井坂の下の大師堂に参り、坂の上の関所跡と河野通清供養塔に行きます。
「無理するな・・」って。いえ、いえ、上り坂でも地道の方がずっと楽なのですよ。
粟井坂のことも、この先の標石のことも三巡目の日記で書いていますので省略します。ただ、書き落としの標石を追記しておきますね。和田のバス停近くに徳右衛門標石。劣化が進んで殆ど読めませんが「是より延命寺迄七里七丁」。鹿峰に同じく徳右衛門標石、「御自作やくよけ大師、遍照院江三里三十二丁」。(延命寺への案内を遍照院に改刻したものといわれる。)

 粟井坂へ 

 粟井坂の郡境石

 鹿峰の徳右衛門標石

足を引きずって、カメ歩きで北条の宿に入りました。

 松山市街北部の地図 粟井付近の地図を追加しておきます。


                                            (4月3日)



今治まで、ズルして区切る

北条の街から、港の先におカマを伏せたような形の鹿島が見えます。聞くと、鹿」が棲む島というのが島名の由来だと言いますが、神功皇后が朝鮮出征の際、立ち寄ったという伝説を持ちます。その特異な形に因があるように思えます。気になる島です。
四国の寺とも 因縁の浅からぬ行基菩薩が残したと言われる日本図。それには日本列島を取り囲む龍が描かれています。龍の動き(地震とも)を鎮めるという要石(かなめいし)が島の鹿島神社にもあるそうです。判じものですね・・でも、私は追いません。

残念ながら、足は回復せず、引きずっての出発です。何処まで歩けるか・・

 北条立岩川の朝

鎌大師に寄って鴻之坂を越えます。
この峠の前後には、三つの茂兵衛標石があります。峠の前、鎌大師の上り口に246度目、大正元年9月。峠に242度目、明治45年3月。そして峠を越えた所の下り道に、258度目、大正4年2月。後の2基は三巡目の日記にも書いたように、添句付です。
下り道の標石は、新道との三差路にあり、寺名の刻字が「延命寺」、「延明寺」となっており謎を呼ぶ石です。
私は以前、この石は元々旧道の反対側(右側)に45°ほど回転して設置されていて、いずれの手指しも先方を指すことになり、寺名はいずれも延命寺であったのではないか、そして道の拡張のため場所を変えたため合わなくなり「命」を「明」に彫り変えた・・との珍説を考案したことがありました。
しかし、この石の前の峠の標石は、茂兵衛さんには滅多にない距離付のものですし、この先延命寺までには、徳右衛門標石を改刻した標石も2基あるといいますし、茂兵衛さんは徳右衛門さんに比べて、論理性、厳密性より熱情が勝っている人のように思えてきます。なんでもあり・・あまり気にしない方がよいのかもしれません。

 峠下の茂兵衛標石「延明寺」


 鴻之坂から見る浅海の街

峠から見る浅海の街とその向こうの海の風景は、何度見ても飽きないものです。
浅海の阿弥陀堂の前で休んでいると、高校生か?風来坊か?という感じの若者がやってきて、芸能人では誰が好きか?の大論議。 いやはや・・「ワシはあんまりテレビ見んからのー・・」
原番所跡。地元では「おじのっさん」と呼ばれる地蔵堂があります。その横に、徳右衛門標石「御自作やくよけ大師、遍照院江一里廿二丁」。(この石も、遍照院の部分は改刻と言われます。)

 原番所跡の徳右衛門標石

私は、ここだけはどうしても再訪したいと思っていた窓坂へ。
入口の目印は、小竹の地蔵堂とその傍にある茂兵衛標石、132度目、明治26年10月。
道を入って石垣の所を左の細い道へ。三角形の名石山が正面より右側に見えていないと間違い道。
この辺りは一面のみかん畑。畑のおばちゃんから、採りたての立派なデコポンを2つも戴きました。
やがて、溜池の堤の上に郡境石が見えてきます。「従是南風早郡」。
溜池の左の道を上ると、窓坂峠の標示が草の中。浅海の街の展望。
右へ森の中の道を行き、開けたみかん畑の中の道が、今の峠。その5、6m手前に、草木のなか切り通しの跡が確認できます。これが、昔の街道(今治街道)でもあった窓峠(まどのとう)。
池の傍の郡境石も元はここにあったそうです。
峠を下った所の小堂にある大師像(台座に「右へんろ道」)も懐かしい限りです。


 窓坂手前の郡境石


 窓坂付近から見る浅海の街


窓坂付近から見る瀬戸内海

 窓坂の切り通し跡

 窓坂下の大師堂

 大師像「右へんろ道」

この度は、ゴルフ場の中の「ひろいあげ坂」の道は行かず、田之尻の海岸の道に出ました。
遍照院で長休憩。菊間の街中の茂兵衛標石二つ(いずれも122度目、明治25年2月のもので遍照院を案内する。)を確認して、電車で大西まで移動することにします。ついにズルの決断です。

ここ(空白)

大西の駅から延命寺に向って歩きます。
右手に大池を見て、新国道を右に分けて旧国道を行くと、延喜店(えんぎだな)という所があり、道の左手に「従是延喜観音寶・・/同所醍醐天王陵・・」(下は土に埋まる)の石碑が立っています。
ここから北方0.7kにある延喜観音として知られる乗禅寺を案内しているのです。

 延喜店の標石

醍醐天皇は延喜年間(901~923)に在位した60代天皇で、延喜帝とも呼ばれ、菅原道真との関係でも知られますが、病気平癒祈願の縁で帝の勅願寺となったのが乗禅寺であると伝えられます。石碑の後半の刻文はそれを言っているようです。
乗禅寺へ行く道の先は、今治波止浜港に通じており、古くからの遍路道でもありました。
延喜店から500mほどで左に54番延命寺の参道。
参道を少し入った左山際に、茂兵衛標石、256度目、大正4年3月。この標石にはぎっしりと文字が刻まれ、「旅う連し唯だ一筋に法の国」茂兵衛さん得意の句の他「右 五十五番是迄打もどり大便利」とあります。これは、延命寺に参った後、荷物を置いて55番を打って戻り、ここから56番泰山寺へ行くのが便利と言っているようなのです。
地図を見て「うーん」と唸るのですが、茂兵衛は大正に入ってからは昔からの遍路道ではなく、今の旧国道を通って55番と往来することを勧めている節があり(旧国道上に2つの茂兵衛標石が残っている。)旧国道の「山路」辺りから馬越町を通れば、泰山寺は近いような気もします。
参道の少し奥に、天保12年の標石があり「延命寺」は枠取りの中にあり、彫り直されたとされているものです。元は「圓明寺」と彫られていたと言われているのですが、54番札所がいつの頃から延命寺に変わったのかについては断定ができないようです。
真念の「道指南」や「名所図会」では延命寺となっていますし(「道指南」の初版(1687)は伊予史談会本に拠る)、これまで見た徳右衛門標石でも、そうです。((追記)細田周英「四国遍礼絵図」宝暦13年(1763)、「道指南」の増補大成、明和4年(1767)の原本でも「延命寺」となっている。)一方、この標石のように江戸後期でも「圓明寺」であったとする証しも多くあると言います。


 延命寺参道の標石

延命寺の二の門の左側に徳右衛門標石「是より別宮迄一里」があります。
境内には大変有名な美しい真念石があります。もちろん、元々門前か道中に置かれていたものを、ここに移してきたものでしょう。
この時間、境内は大変静かで、遍路が、ぽつり、ぽつり、やってきて納経所にかける声だけが聞こえていました。

 延命寺の真念石


 延命寺近くの墓群

南光坊への道は、茂兵衛さんは賛成しないかもしれませんが、今の国道の状況を考えると、やはり、大谷霊園を越える古くからの道を選びたいですね。
この古い道の周囲には、多くの道標や舟形地蔵があります。寺を出て直ぐに、多くの墓石が集められている処があります。前に六地蔵。思わず合掌させられる壮観です。
少し行くと、コンクリート擁壁に挟まれるように茂兵衛標石、219度目、明治40年11月。
延命寺が近見山にあった頃、この辺りも近見百坊の一つとして薬師堂あった所といいます。
大谷霊園は桜がきれいでした。兵士の墓が並ぶのを見ると、伊予の国が日本のためにいかに大きな犠牲を払ってきたか、ということを見せつけられる思いがしたものでした。
今回の最後となる札所、55番南光坊。
境内でゆっくりと過ごしました。
以前の日記にも書きましたが、この大師堂は、周防大島の長州大工の一人、門井友祐が彫刻師として参加し建てられたものと言われます。門井は、あの興隆寺の仁王門にも彫刻を残しています。この大師堂でも立派な彫刻がその壁を飾っています。
境内にある静道道標「従是泰山寺十八丁」も見ました。
添えられた句 「暮かけて一里も久禮ず秋の山」

 南光坊大師堂

 大師堂の彫刻

 静道道標

ここで今回の区切りとしました。

 浅海、窓坂付近の地図 菊間付近の地図を追加しておきます。


                                           (4月4日)

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