《河童》の旅メモ

富雄川流域探索

旧街道・熊野街道「柏原経済の原点」

2015年12月24日 | Weblog

三田家住宅の裏手にある船溜まり。柏原舟は全長約12m、幅約2m、深さ約0.4mの舟で2人乗りで運行された。
1636年(寛永13年)の発足時には総数40艘ではじめられたが、
大阪組が参加した1640年(寛永17年)には総数は70艘になった。
大和川の付け替え工事後も、了意川(平野川)を利用し柏原舟の運行は続き、
柏原村の経済の発展に大きな役割を果たしたが、1889年(明治22年)湊町、
柏原間に鉄道が開通したため、荷物輸送は柏原舟から鉄道に代わり、
1907年(明治40年)にその役目を終えた(大阪再発見HP)。


旧街道・大阪奈良街道1「このままでは朽ちてゆく」

2015年12月23日 | Weblog

三田家住宅は奈良街道に面した町家で、裏は了意川(りょういがわ:平野川)に接し、
柏原船(かしわらぶね)の積荷をそのまま荷揚げできる造りになってい ました。
三田家は、元は大坂伏見呉服町で「大文字屋」と称した有力商人で、寛永13年(1636年)に
代官末吉孫左衛門に協力して柏原船を興し、寛永17 年に柏原に移り住んで柏原船の運航や肥料商を営みました。
明和3年(1766年)から明和5年にかけて屋敷の大改築(大普請)が行われ、
その屋敷がそれ以 後大きな改築を行われず今日まで遺されています(柏原市HP)。


旧街道・大阪奈良街道1「物部氏の故郷?」

2015年12月22日 | Weblog

800年頃の創建と言われる弓削神社は弓削氏の氏神である。
弓削氏は河内国若江郡弓削郷を本貫とする豪族で、その名の通り、武器の製作に携わるグループを率いていた。
また、物部氏との関わりも強く、物部尾興は弓削連祖倭古連の娘阿佐姫と結婚して物部守屋を生んだと言われ、
守屋は物部弓削守屋大連と複数姓をとっており、この地を本願としていたと思われる。
(大阪再発見http://www12.plala.or.jp/HOUJI/jinja-1/newpage278.htm