墨は奈良時代、社寺で作り続けられていていて、奈良墨は藤原氏の氏寺・興福寺との関係が深い。松の木を燃やして出る「スス」を使って独占的に作っていた。その後灯明などに使う胡麻油や菜種油の油煙を使うことにより大量に生産が可能になり、興福寺から一般の墨職人「墨工」が作るようなった。平安京へ遷都された後、奈良の産業は衰退を続ける。そんな中、幕末期の奈良奉行として赴任した川路聖謨はこれを嘆き、奈良墨の復興にも力を注いだ。最盛期40件余りあった墨屋は明治元年には古梅園(1577年創業)をはじめとして11軒の墨屋しか残っていなかった。
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