《河童》の旅メモ

富雄川流域探索

平城京を歩く「条坊制2」

2010年06月24日 | Weblog
なぜ碁盤の目のような地割をしたかについては計画的に宅地を分けるため。下級役人や民衆の住まいの屋根は藁葺きか板葺きであった。京内には公設市場東西に各一箇所(西市、東市)があり、そこでは納税されて余った物質を販売していた。平城京内の人口はかつて20万人ぐらいと言われていたが、最近のデーターでは10万人ぐらいだったとされている。いずれにしても各地方からの人々の出入りは多かった。ちょうど今の東京都や大阪府などの大都市の人の流れに似ている。
(今日の歴史=672大海人皇子が吉野で大友皇子に対して挙兵し壬申の乱が始まる)


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