ふいに思い立って、夜中に一人で尾崎豊のレコードを聴いていた。
中学生のとき、毎日聞いていた尾崎。
伝説の大阪球場コンサートも行った。
かなり傾倒していた。
もうあれから四半世紀経つのか……
そう思うと、嘘みたいでもあるし、現実を実感するような気持ちにもなるしで、複雑な心境に陥る。
20曲、全部歌えた。
ほとんど間違えずに。
昔覚えた歌というのは、体に沁みついていて、簡単にはがれるものではない。
歌詞を聴いていて思う。
私は尾崎を聴きすぎて、こんな大人になってしまったんだろうかと。
サラリーマンにはなりたかねぇ
朝夕のラッシュアワー、酒びたりの中年たち
自由になりたくないかい?
何を縛られて生きるの?
こんな歌詞ばっかり聴いて、聴きすぎて、すり込みっていうやつで、サラリーマンにならなかったんじゃないのか?
ラッシュの電車をあんなにも毛嫌いするのではないのか?
縛られることを嫌がるのではないのか?
(酒びたりの中年にはなったが)
そんなことを考えていたら、夜中1時頃、夫が帰って来た。
「私はまだ行き先もわからないまま、盗んだバイクで走ってるんやなぁ」と言ったら、
「正気か?!」と言われた。
正気も正気だ。
いや、もうずいぶん前から狂っていたのかもしれないけれど。
とりあえず、「今」おかしくなったわけではない。
四半世紀前の自分はまだ夜の帳の中を走っている。行き先もわからないままで。
どこに行けば辿りつくのだろうかと未だに思っている。
(シェリーがいたら尋ねてみたい)
結局、あんまり成長していないのか。
40歳になってもまだ本当の自分の生き方を模索している。
この15年間、「書くこと」には助けられてばかりだった。だけど、これが私の悩みのタネでもあるわけで。
自分が本当に書きたいものなど書ける場はない、ということを実感させられることばかり。
人が好きなリズムって、それぞれ違うのだ。
音楽と同じで、文章にもリズムというのがある。
それが自分とぴったり合うと、音楽を聴いているときのように心地よく文章が読める。
その逆もある。
読んでいる途中から、退屈で退屈で。まったく入り込めないし、リズムが違うので気持ちが悪い。
「いくらきれいでもなかなか進まなくて、退屈な文章ってあるよね」と夫に言ったら、
「それは、アマチュアのバラードを聴かされているくらいしんどいな」と言った。
言い得て妙。
リズム、そして言葉の使い方。
これは本当に人それぞれ。何がいいとか優れているとかじゃなくて。好みの問題。
私は、難しい言葉が嫌いだ。
なぜなら、仕事で書く文章というのは、「読んでもらわないと意味がない」からだ。
アホでも読める文章を書きたいといつも思っている。
だから、できるだけわかりやすい言葉を使う。ストレートに。リズムよく。スピード感をもって。
それがいつも心がけていること。
漫才じゃないけど、「つかみ」というのも本当に大事で。
とりあえず、最初に、なんか面白そう!と思ってもらえるような「つかみ」を入れたいし、どんなに短くても何かしらストーリー性というのか、テーマというのか、そういうのを出したいと思ってしまう。
まあ、いつも完璧にできているわけではないけれど。目標ね
そういう「表現」のことを考えていると、いつも宮本輝の『夢見通りの人々』を思い出す。
詩を書く春太が、他の人が書いたちょっと前衛的な詩が賞賛されているのを不満に思うシーン。
春太の好きな詩は、
「その橋は まこと ながかりきと 旅終わりては 人にも告げむ」(津村信夫)や
「辛よ さようなら 金よ さようなら 君らは雨の降る品川駅から乗車する」(中野重治)などである。
春太はそれが詩だと思っていた。なんと、ひとことも難しい言葉を使わずに、多くのものを埋蔵していることだろう。それこそが詩ではないか。春太はここ数年、詩壇の世界でもてはやされ、有名な賞を取っている詩人たちの、晦渋で無味乾燥な作品を何篇か思い浮かべてみた。そして自分の詩を口ずさんだ。心を言葉に尽くすのは、きっと不可能なのに違いないと思った。(本文より)
私はこれを読むたびに、ウン、ウンとうなずいていた。
ひとことも難しい言葉を使わず、読んだ瞬間に心にまで届くような、そんな文章が私も好きなのだ。
逆に、そのほうが、「言葉」というものが持っている意味というのか、重みというのか、そういうのが伝わってくるから。
だけど、そうだ。春太も言うように、心を言葉に尽くすのは、きっと不可能なんだろうな……
そうわかっていながら書き続けるというのは、時に虚しく、時に淋しいものだ。なんと変なことを職業にしてしまったものか。
でも、取材は本当に楽しい。新しい人に会うのが楽しい。人の生き様を垣間見れるのが楽しい。
もう何百人どころじゃない、これまでに軽く1000人以上は取材してきた。
取材相手に喜んでもらえるものを書きたいといつも思っている。
そんなふうに、仕事をしているといろんな想いがある。あるけれど、常にその想いが通るわけではない。
楽しいだけではすまない。
どんな仕事だって、納得のいかないことはたくさんあるし、悔しい想いをさせられることはあるのだろう。
でも、ギリギリと歯を食いしばるだけだ。明日も生きていくために。15歳のときのように「自由になりたい」と思っているだけじゃ、ゴハンは食べていけないのだ。悲しいことにこれが大人。
納得しているようでいて、ふとこんなことを思う。
自分の心地よいリズムで、難しい言葉を使わず、取材相手の気持ちに沿いながら喜んでもらえるものを書く。それが全部できたら、どんなにいいだろう。
昔はそれができる場があったが、今はないなぁ。
そして、また同じ結論。何度も何度も同じ。もうわかっているのだ。自分でやるしかない。本当に自由になりたければ。
でも、それができたところで、それが私の求めてきた「自由」なのかどうかもわからない。
そもそも自由になりたいのか、私は。いや、自由って一体なんだ?
ああ、ますます尾崎みたいになってきた。相変わらずブレブレだ。
まだ夜の帳は続くのか。
とりあえず、もう少しだけ走ってみよう。ガソリンはまだ残っている。
中学生のとき、毎日聞いていた尾崎。
伝説の大阪球場コンサートも行った。
かなり傾倒していた。
もうあれから四半世紀経つのか……
そう思うと、嘘みたいでもあるし、現実を実感するような気持ちにもなるしで、複雑な心境に陥る。
20曲、全部歌えた。
ほとんど間違えずに。
昔覚えた歌というのは、体に沁みついていて、簡単にはがれるものではない。
歌詞を聴いていて思う。
私は尾崎を聴きすぎて、こんな大人になってしまったんだろうかと。
サラリーマンにはなりたかねぇ
朝夕のラッシュアワー、酒びたりの中年たち
自由になりたくないかい?
何を縛られて生きるの?
こんな歌詞ばっかり聴いて、聴きすぎて、すり込みっていうやつで、サラリーマンにならなかったんじゃないのか?
ラッシュの電車をあんなにも毛嫌いするのではないのか?
縛られることを嫌がるのではないのか?
(酒びたりの中年にはなったが)
そんなことを考えていたら、夜中1時頃、夫が帰って来た。
「私はまだ行き先もわからないまま、盗んだバイクで走ってるんやなぁ」と言ったら、
「正気か?!」と言われた。
正気も正気だ。
いや、もうずいぶん前から狂っていたのかもしれないけれど。
とりあえず、「今」おかしくなったわけではない。
四半世紀前の自分はまだ夜の帳の中を走っている。行き先もわからないままで。
どこに行けば辿りつくのだろうかと未だに思っている。
(シェリーがいたら尋ねてみたい)
結局、あんまり成長していないのか。
40歳になってもまだ本当の自分の生き方を模索している。
この15年間、「書くこと」には助けられてばかりだった。だけど、これが私の悩みのタネでもあるわけで。
自分が本当に書きたいものなど書ける場はない、ということを実感させられることばかり。
人が好きなリズムって、それぞれ違うのだ。
音楽と同じで、文章にもリズムというのがある。
それが自分とぴったり合うと、音楽を聴いているときのように心地よく文章が読める。
その逆もある。
読んでいる途中から、退屈で退屈で。まったく入り込めないし、リズムが違うので気持ちが悪い。
「いくらきれいでもなかなか進まなくて、退屈な文章ってあるよね」と夫に言ったら、
「それは、アマチュアのバラードを聴かされているくらいしんどいな」と言った。
言い得て妙。
リズム、そして言葉の使い方。
これは本当に人それぞれ。何がいいとか優れているとかじゃなくて。好みの問題。
私は、難しい言葉が嫌いだ。
なぜなら、仕事で書く文章というのは、「読んでもらわないと意味がない」からだ。
アホでも読める文章を書きたいといつも思っている。
だから、できるだけわかりやすい言葉を使う。ストレートに。リズムよく。スピード感をもって。
それがいつも心がけていること。
漫才じゃないけど、「つかみ」というのも本当に大事で。
とりあえず、最初に、なんか面白そう!と思ってもらえるような「つかみ」を入れたいし、どんなに短くても何かしらストーリー性というのか、テーマというのか、そういうのを出したいと思ってしまう。
まあ、いつも完璧にできているわけではないけれど。目標ね
そういう「表現」のことを考えていると、いつも宮本輝の『夢見通りの人々』を思い出す。
詩を書く春太が、他の人が書いたちょっと前衛的な詩が賞賛されているのを不満に思うシーン。
春太の好きな詩は、
「その橋は まこと ながかりきと 旅終わりては 人にも告げむ」(津村信夫)や
「辛よ さようなら 金よ さようなら 君らは雨の降る品川駅から乗車する」(中野重治)などである。
春太はそれが詩だと思っていた。なんと、ひとことも難しい言葉を使わずに、多くのものを埋蔵していることだろう。それこそが詩ではないか。春太はここ数年、詩壇の世界でもてはやされ、有名な賞を取っている詩人たちの、晦渋で無味乾燥な作品を何篇か思い浮かべてみた。そして自分の詩を口ずさんだ。心を言葉に尽くすのは、きっと不可能なのに違いないと思った。(本文より)
私はこれを読むたびに、ウン、ウンとうなずいていた。
ひとことも難しい言葉を使わず、読んだ瞬間に心にまで届くような、そんな文章が私も好きなのだ。
逆に、そのほうが、「言葉」というものが持っている意味というのか、重みというのか、そういうのが伝わってくるから。
だけど、そうだ。春太も言うように、心を言葉に尽くすのは、きっと不可能なんだろうな……
そうわかっていながら書き続けるというのは、時に虚しく、時に淋しいものだ。なんと変なことを職業にしてしまったものか。
でも、取材は本当に楽しい。新しい人に会うのが楽しい。人の生き様を垣間見れるのが楽しい。
もう何百人どころじゃない、これまでに軽く1000人以上は取材してきた。
取材相手に喜んでもらえるものを書きたいといつも思っている。
そんなふうに、仕事をしているといろんな想いがある。あるけれど、常にその想いが通るわけではない。
楽しいだけではすまない。
どんな仕事だって、納得のいかないことはたくさんあるし、悔しい想いをさせられることはあるのだろう。
でも、ギリギリと歯を食いしばるだけだ。明日も生きていくために。15歳のときのように「自由になりたい」と思っているだけじゃ、ゴハンは食べていけないのだ。悲しいことにこれが大人。
納得しているようでいて、ふとこんなことを思う。
自分の心地よいリズムで、難しい言葉を使わず、取材相手の気持ちに沿いながら喜んでもらえるものを書く。それが全部できたら、どんなにいいだろう。
昔はそれができる場があったが、今はないなぁ。
そして、また同じ結論。何度も何度も同じ。もうわかっているのだ。自分でやるしかない。本当に自由になりたければ。
でも、それができたところで、それが私の求めてきた「自由」なのかどうかもわからない。
そもそも自由になりたいのか、私は。いや、自由って一体なんだ?
ああ、ますます尾崎みたいになってきた。相変わらずブレブレだ。
まだ夜の帳は続くのか。
とりあえず、もう少しだけ走ってみよう。ガソリンはまだ残っている。