午前中に娘の家の芝刈りに汗を流したあと、昼前に都城まで行くことにした。
夕方7時に町内会の役員会があるのだが、鹿屋市の笠之原から東九州自動車道に入り、志布志経由で今度は都城志布志道路に路線変えし、ほぼ信号なしで都城の南部入口まで行くことができるようになったので、往復するだけなら2時間くらいで行って来られる。
これら自動車専用道路が無かった5,6年前までは、60キロ余りの道のりを一般国道で行くしかなく、片道だけでも優に1時間半はかかっていた。
まず目指したのは都城歴史資料館で、この場所には歴代の都城島津氏族「北郷(ほんごう)氏」の居城があった。
天守閣を模した都城歴史資料館。北郷氏の居城の本丸がここにあり、「都島」と呼ばれた台地の上に中尾城・破城・池ノ上城・取添城・西城・南城など10を数える城があった。
都城盆地は大昔は約3万年前の姶良カルデラの噴出物で川がせき止められた湖だったのだが、数万年かかって北への排水溝が生まれ、流れ流れて宮崎市を還流して太平洋に注ぐようになった。大淀川である。
この大淀川の源流は鹿児島県曽於市の南之郷の山中にあり、この源流が同市末吉町を通って都城に入り、歴史資料館のある旧北郷氏居城の高台にぶつかり、そこでさらにいくつかの河川が合わさって本格的な大淀川になる。
北郷氏居城は「都島城」とも呼ばれていたらしく、資料館(本丸)とは谷を隔てた「西城」と呼ばれた所には「狭野神社」が建立されているが、境内に立つ案内板によると、「この高台は神武天皇こと狭野(さの)の尊の旧居であり、ここを拠点にして栄えたあと東征に出発した」とある。
その頃はすでに都城盆地からは水が引いていたのだろうけれど、やはり盆地の入口を塞ぐような位置にある高台は都城一帯を治めるには好適な場所だったに違いない。
資料館の展示物は旧石器時代から明治大正そして昭和の戦跡まで幅が広いが、私の目に留まったのは木造の骨組みが珍しい2回の回廊にあった縄文時代の「壺型土器」だ。
高さ30センチ、幅20センチほどのさほど大きなものではないが、端正に作られている。注ぎ口の深い横溝と、肩のあたりまでに見られる流水紋(?)が印象的だ。発見したのは「志和池(志和地)小学校」の生徒だったという。
ふた昔いや三昔前だったら、縄文の壺ではなく弥生時代の壺とされていたはずだが、鹿児島県国分の上野原遺跡で「縄文の壺」が確定されたので、まごうことなく8000年前のものと判定された。
土器は昔から女性の手で作られたとされるが、優美な形は確かにそう思わせる。これで温かい飲み物でも沸かしたのだろうか。用途はいまいち分からない。
資料館を辞してからまだ時間があったので、「神柱宮」を参拝した。
この神社は島津庄の前身を開拓し、摂政藤原頼通に寄進した太宰府の大監だった平季基(すえもと)が建立した都城市梅北益貫の「黒尾神社」が、明治6年になって現在地に移転したお宮である。
黒尾神社のある梅北は、平季基が最初に田地を拓いたところで、大淀川の支流梅北川の沖積地であり、ここを拠点に下流に当たる盆地にまで荘園を広げたようだ。当時の都城は「無主の地」だったそうだが、詳しいいきさつは分かっていない。(※かつて湖だったため、姶良カルデラによるシラス火山灰や霧島火山の降灰が度重なったにせよ、土壌としては悪くなかったと思うのだが・・・)
明治6年に新しく建立されたのが「神柱宮」だ。当時の県令は薩摩藩出身の桂久武であった。
高さ25mというコンクリート造りでは日本一の大鳥居をくぐるとそこは広い公園になっており、奥に進んだところに石段と小ぶりな鳥居が見え、上がった鳥居の先は広い境内である。
本殿に祭られているのは天照大神と豊受大神がメインで、この二柱は島津庄開拓者平季基が最初に梅北の地において伊勢神宮から分霊したと伝えられている。
しかもその年月日まで分かっているのだ。万寿3年(1026年)9月9日だそうである。とすると再来年の9月9日(旧暦)がこの神社の前身である黒尾神社はちょうど建立1000年の節目だ。
1000年前に建立された際の奉斎者の名が分かり、年月日も判明しているという神社は日本全国で10万社はあろうかという中でもそう多くないはずだ。
その最初の奉斎者である平季基を祀る末社「基柱神社」が、本殿の右手に並んでいる。なぜか菅原天神を相殿にしているのだが、季基だけでは参拝客も少なかろうと学問・受験で圧倒的に人気のある道真公を招霊したのだろうか。
そのせいか、拝殿の外壁には多数の絵馬が掛けられており、「学問の神様」人気を裏付けていた。
また手水舎の上を覆い尽くさんばかりのイチョウの巨木は、昭和天皇がまだ皇太子の時代にこちらを参拝された時(大正8年=1918年)にお手植えされたものだった。
3時過ぎに帰路に就いたが、時間があったので志布志で自動車道を降り、埋蔵文化財センターの展示室を訪れたところ、そこにも8000年前の「縄文の壺型土器」があった。
夏井という江戸時代には番所があり、今は海水浴場にもなっている所のやや高台で発見された物という。都城歴史資料館の小学生が発見したという壺型土器と比べ形は瓜二つだが、一回り小型であった。
いずれにせよ、南九州では縄文の壺型土器が見つかるのは広範囲であり、どれをとっても早期に属しており、年代で言えば8000年から9000年前に相当している。
それがあの7400年前の「鬼界カルデラの大噴火」によって亡失してしまった。大噴火後に壺型土器は継続していない。
縄文早期に南九州に暮らしていた人たちの高い文化はいったいどこに消えたのだろうか? それとも離散して形を変えてしまったのか?
志布志市埋蔵文化センターの案内人は「歴史ガイド」というボランティアの高齢の女性だったが、志布志城の話を聞いたあと、「福山氏庭園」というのが最近整備されたと聞いて行ってみた。
もう5時まで10分ほどしかなく急いで行ってみると、場所は志布志小学校の隣りといってよかった。しかもここには「若宮神社」というのがあり、山宮神社に祭られている天智天皇の娘・持統天皇が祭神だというので3回くらい来たことがあった。
しかしそのお宮たるや、何ともみすぼらしい姿である。
父君の天智天皇の「安楽山宮神社」が1200年の楠を前景に立派なお社を構えているのに比べるとまさに月とスッポンの差がある。
今度の台風10号の襲来に備えたのか、拝殿の上の角に2本の太い丸太が斜めに突っかい棒になっているのも見苦しい。
福山氏庭園の入り口がまだ空いていたので、母屋にいた歴史ガイドの女性に遅く見学に来たことを詫びつつも、若宮神社について苦言を呈してしまったが、もとより小言を言うために来たわけではないことを分かってもらえただろうか。
時間的にもっと早く来ればよかったと思った。また近いうちに来てみよう。
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