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隼人という呼称はいつからなのか?

2021-04-29 15:33:56 | 鹿児島古代史の謎
鹿児島県及び宮崎県の古代史に登場する「隼人」だが、古代の南九州人をいつから隼人と呼ぶようになったのかを押さえておかないと、南九州史を通覧する際に誤謬を犯すので注意が必要である。

先日の新聞でかなり著名な作家が、「隼人系の古墳」という書き方をしていたのだが、古墳時代には「隼人」はいなかったのだ。

こういう言い方をすると「えっ」と思われるかもしれない。

ではいつから南九州人が「隼人」と呼ばれるようになったかというと、天武天皇の時代である。当時はるばる九州南部から朝貢に訪れていた南九州人を「隼人」と呼んでいたことは間違いない。

「阿多隼人と大隅隼人に相撲を取らせたら大隅隼人が勝った」などという具体的な記事が天武天皇紀には書かれており、しかもその年代は天武天皇の11年(西暦682年)と特定でき、間違いなくその時点で中央政府は南九州人を「隼人」と呼んでいた。

しかしそれ以前の記紀の記事では、たとえ「隼人」という名称が使われていたとしても、それは今出て来た天武天皇の時に編纂が開始された古事記や日本書紀において、天武時代に確立した「南九州人=隼人」呼称を過去にさかのぼって名付け直したというのが真相なのである。

そのもっとも古い「記事」は、神話時代にさかのぼる。

日向の曽の「クシフルの峰」に降臨した天孫第一代ニニギノミコトが、南九州を巡回して薩摩半島の阿多地方に到り、そこで山の神オオヤマツミの娘のカムアタツヒメ(別名コノハナサクヤヒメ。書紀ではカアシツヒメ)と出会い、一夜契りをしたところ妊娠し、子を産む段になって産屋に火を放って三人の子を産んだ。

三人の皇子を古事記では最初に生まれた子を「ホデリノミコト」とし、注記に「これは隼人阿多君の祖」と書いている。二番目の子は「ホスセリミコト」、三番目を「ホオリノミコト」又の名をヒコホホデミノミコトとしている。

一方、日本書紀では三人の皇子を「ホスセリノミコト」「ヒコホホデミノミコト」「ホアカリノミコト」とし、古事記では次男に当たるホスセリノミコトを長男とし、割注に「これ隼人等が始祖なり」と書く。

隼人の祖を古事記ではホデリノミコト、書紀ではホスセリノミコトという違いの理由は判明しないが、ホデリを漢字交じりで「火照り」と書き、ホスセリを「火闌降」と書いており、どりらも「火が燃え盛っている」とのイメージは一緒である。

(※私見ではこの「火が燃え盛っている」という表現や、母のカムアタツヒメがわざわざ「産屋に火をつけてその中で産む」という表現に、南九州の火山活動の盛んなことを象徴したものと捉えるのだが、その詳細はここでは論じない。)

いずれにしても記紀ともにカムアタツヒメの生んだ皇子の中に隼人の祖がいたと書いているわけだが、この時の「隼人」は注記でしかなく、編纂当時にそれを挿入したのはあきらかである。

また、時代は下って、仁徳天皇の住吉仲皇子に仕えていたというソバカリ(書紀ではサシヒレ)が隼人であったといい、また雄略天皇の死に臨んで隼人が墓前で泣き叫んで死んだといい、また敏達天皇の殯りの宮において隼人が誄(しのびごと)を読み上げたという記事等々に登場する「隼人」も記紀編纂当時の挿入である。

天武天皇の時代に隼人呼称が生まれた背景には、白村江の敗戦以来、朝鮮半島の利権のすべてを失った列島王権が志向した「律令制制定による中央集権国家体制」確立のため、唐王朝の諸制度に倣い、中でも「四神思想」を取り入れたからであった。

その四神とは東西南北に神獣を当てはめることで、東は「青龍」、西は「白虎」、南は「朱雀」、北は「玄武」で表徴させた。この中で南九州は王権の存在する大和から見て南であったから「朱雀」が当てられた。

朱雀は南方守護を表徴する神獣で、「赤・火」を表していたが、南九州人に当てはめる際に神獣の姿である「鳳凰状の鳥」では畏れ多い(もったいない)として、南九州人の素早い属性を勘案して「鳥隼」すなわち「隼(はやぶさ)」に決っせられたようである。これが「隼人」呼称の誕生であった。

以上から南九州人を「隼人」と呼ぶのは天武天皇時代からであり、それ以前の南九州人を隼人とするのは歴史上からは誤りということになる。

したがって天武朝以前の、例えば古墳時代の墓制が南九州で発掘され、それが他と比べて独自のものであっても、決して「隼人の墓制」とか「隼人系の墓制」とは言うべきではないのである。

それに代わる言い方としては「南九州人古墳時代の墓制」とか「南九州特有の古墳」などと言うべきだろう。

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