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肝付氏初代系譜への疑問(1)

2024-03-15 13:55:52 | 鹿児島古代史の謎

 【肝付氏の没落】

肝付氏は肝属郡高山を本拠地とした戦国大名で、15世紀以降、薩摩半島の大半を占めた島津氏と、時に争い、時に婚姻を結びながら16世紀の末近くになってついに彼の軍門に下り、大隅半島から阿多に移封されて途絶した豪族である。

没落の最終局面は史料にはっきりと残っている。

天正元年(1573)に同じ大隅半島の豪族禰寝氏が島津氏に下った翌年、島津氏に降伏し、6年後の天正8年(1580)になって当主の肝付氏18代兼護(かねもり)一党は薩摩半島の阿多に400石の采地を与えられて移封され、高山に根付いていた肝付氏はついに滅びた。

その後、高山には島津氏方の地頭が派遣されて島津氏の直轄下に入るのだが、肝付氏旧来の家臣たちの行先は多岐にわたり、本家の肝付兼護について阿多に移った者は言わば「譜代」の上級家臣で、そのまま高山に残った者も多かった。

1か月前の2月10日、11日に志布志の「安楽山宮神社」の祭礼を見に行った時に出会った名古屋在住の安楽さんという人の祖先「安楽氏」は肝付氏の中でも家老クラスの重臣で、肝付氏が島津氏に降伏した年に垂水の牛根城を死守していた「安楽兼寛」はその一人である。

 【肝付氏の高山入部(移住)についての疑問】

肝付氏の本家が高山を離れて阿多へ移封された年、つまり肝付氏没落の年は1580年(天正8年)と明確に分かっているのだが、実は肝付氏初代がいつ高山に入ったかについてははっきりしていない。

この疑問については長らく大隅史談会に所属し、今年の3月に98歳で逝去された高山町の郷土史家・竹之井敏先生(女性)が、大隅史談会の会誌「大隅56号」(平成25年3月発行)に書いておられる。それを要旨で引用すると、

<史談会役員の間で「肝付氏の初代兼俊が肝属郡の高山に土着した年代が史料には見えず、また高山での事績が一向に分からない」という疑問が出されていた。>

ということで、竹之井先生がそれを聞いたのは昭和60年の頃かららしい。もう30年以上前のことである。

その疑問がずうっと脳裏に引っ掛かっており、「大隅56号」でようやく自論を発表したのであった。

竹之井先生の説によれば、宮崎県串間市にあった「櫛間(くしま)院」の院司(弁済使)に歴代「伴姓」の者が多く、そうであれば肝付郡は櫛間院の院司によって兼領されていた可能性が高い。したがって肝付郡には現地の院司はいなかったがゆえに肝付氏なる豪族も存在しなかった――という結論に達したようである。

また同じ「大隅56号」に当時副会長だった隈元信一氏の論考があり、やはり肝付氏初代兼俊とその父である伴兼貞の関係について見解を出している。

隈元氏が史料として取り上げる「伴姓梅北氏」の正統系図によると、梅北氏の初代は兼高といい、都城市梅北の西生寺山王社に見える古い棟札に「仁安2(1167)年丁亥3月2日大施主旦那散位伴朝臣兼高」とあるので、梅北氏の初代兼高の年代が判明している。

また兼高の兄に当たる長兄の兼俊が肝付郡九城院(串良院)と諸県郡救仁院(現志布志市)の弁済使職を兼ねたのが長寛2(1164)年であり、1160年代の史料に弟の兼高とともに現れていることから、5人いたとされる兼貞の子の世代は1150年頃のことになり、父兼貞が長元9(1036)年に存在していたとする系譜は考えられない――という。

 

竹之井先生の見解では、肝付氏正統系図にあるように初代兼俊の肝付郡への入部(移住)は長元9(1036)年である。しかし兼俊と二代目の兼経との間の空白は150年ほどもあり、その間は宮崎の串間に所在した「櫛間院」こそが伴氏の本領であり、そこから肝付郡も兼領支配していた――とする。

隈元信一氏の見解では、肝付氏初代兼俊の生存時代は1150年頃であり、父とされる伴兼貞は長元9(1036)に舅であり都城の梅北地方を開拓して藤原氏に寄進した平季基(すえもと)に現地の管理を任されたことが分かっており、その親子の間には130年ほどの空白があるが、その間の世代3代から4代が抜けている――とする。

 

わたしも世代が抜けていると考えるのだが、その理由については続きで論じたい。

 

 

 


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