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「右田守男『サツマイモ本土伝来の真相』を読む」への追記

2023-11-10 14:00:07 | 鹿児島古代史の謎

昨日はこの秋に読むべき2冊の歴史本のうち、右田守男氏の『サツマイモ本土伝来の真相』を紹介した。始

右田守男氏の鹿屋市高須郷の有力郷士であった先祖「右田利右衛門」こそがサツマイモを導入した始祖であり、世上に膾炙されている「カライモおんじょ」こと山川郷の漁師「前田利右衛門」ではなかったという説に私は賛同したのだが、右田氏から出版に当たって、私が当時氏に送った書簡をあとがきに載せてよいかとの申し出があった。

私は即座に快諾したのだが、実をいうと右田論文への感想を書いた手紙の細かな点までは記憶に残していなかった。もちろん右田説への賛同がその内容なのだが、コピーしていなかったので今回上梓された書籍を贈呈されて改めて細かな点まで再確認したのであった。

ここにその内容を「追記」として載せることにした。ただし全体で約2500字もあり(同書264~269ページ)、挨拶的な部分と内容的に重複する部分は(中略)としてカットした。(※文中の「利右エ門」は「利右衛門」と同じである。)

《 前略 大隅61号への論文投稿、お疲れさまでした。

(中略)大隅第61号の最大の論文は右田さんの「続・カライモおんじょ前田利右エ門説異論」でしょう。

(中略)カライモの伝来の時期・関係人物・経緯については、薩摩半島の半農漁師であった前田利右エ門であるとしてほとんどの人が疑いを容れなかったのですが、翻って見ると私もその一人でして、右田さんの論考によって蒙が開かれた思いがします。

生まれ故郷と言われる山川町の岡児が水には立派な墓があり、また同じ町内には「徳光神社」が建立されて祭神として祭られています。大隅史談会の会長だった時に10名くらいで山川・指宿の史跡巡りをしましたが、私をはじめ誰一人疑いを持つ人はいなかったのが現実です。なにしろ墓があり祭神として祭る立派な神社があるのですから、舞台装置は完璧なのですよ。

(中略)右田さんはたまたま先祖の家系図の中に「利右エ門」がおり、中学生の頃に見たという「朱印状」の存在に後押しされ、また、先祖調べの情熱に促され、ついに「右田利右エ門」説に到達されたのは敬服に値します。この高須を所領に持った右田利右エ門が島津義久(注:島津氏第16代。1533~1611年)から琉球渡航の朱印状を受け取ったらしいことは、論考によって理解するに至りました。

(中略)当時(注:徳川政権の初期)の世相としてキリシタンの急増、それを支える海外宣教師の国内流入に手を焼き始め、ついに海外からも国内からも渡航を禁止する鎖国令、それに伴う大船建造禁止令を矢継ぎ早に出さざるを得なかった時代相の中で、南海に開けた島津氏の動向に幕府は極めて神経質になっていたのです。

(中略)右田利右エ門が右田さんの推論するように、「密使・御庭番」のような存在であったならば、その琉球交易・交渉の担当者(責任者)であった可能性が高く、そうであれば交渉・交易の内容についての「密書」は握りつぶされ、あまつさえ密使であった右田利右エ門の姓名も消されたと考えるのが至当でしょう。

したがって島津方の公文書類からは右田利右エ門関係の記録は削除され、「御公儀」である徳川幕府からの記録開陳を余儀なくされても「知らぬ存ぜぬ」と突っぱねることができたのだと思います。

琉球からのカライモ導入もその流れから見れば、本来は琉球王も他国への持ち出しを禁じていたのではないか、それを言わば戦勝気分で無理矢理に種芋を献上させ、藩内では御説のように1610年代に栽培が始まった。

そして藩主家久(注:島津氏第18代。1576~1638年。妻子を江戸に住まわせる参勤交代を提案した。)が特に珍重していたようですが、この人もおそらくは徳川氏を含めて他国への持ち出しをさせなかったはずで、言わば一種の「専制栽培・特許栽培」で秘密にしておきたかったのではないでしょうか。徳川氏に知れた時に、琉球から持って来たとは言えない時代相が思われます。

(中略)まだまだ御公儀の威令にはびくびくしていなければならなかった時代だったのです。

(中略)末筆になりましたが、右田さんの今後の調査研究に進展があるように願ってやみません。

平成30年8月末日 松下高明拝

右田守男様 》


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