鴨着く島

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光明禅寺と光明寺跡(指宿)考①

2023-10-25 18:01:36 | 鹿児島古代史の謎

指宿は家内の故郷で、墓参りに行くというので一緒に出掛けた。

鹿屋からは垂水フェリーで鹿児島市の鴨池港まで行き、そこからは薩摩半島をほぼ南下する国道226号線を走り、8時40分に出発して着いたのが11時だった。

途中、約50分はフェリーに乗っていたから、90分の運転時間である。よく晴れていて226号線の50キロほどのドライブは景色もよく快適だった。

家内の昔からの墓は当節では当たり前になって来た「墓じまい」を済ませており、某寺院の集合墓地に遺骨などを移し、そこにお参りする形になっている。

お墓のアパートと言うべきか、もしくはお墓の店子と言うべきか、家の中にある仏壇を簡略化した同じ形式の墓がひしめき合う形で並んでいる。

簡略化した仏壇の下は遺骨を入れておく観音開きの「タンス」になっている。

仏壇に線香を焚き、水と故人の好きな物をお供えして手を合わせる。ただし生ものと生花はご法度である。

墓掃除は要らないから、手を合わせる方としては便利この上ない。跡継ぎのいないか、いても都会に出て行って帰ってこないような子供しかいない場合の墓守の一つの形だろう。

寺による「永代供養」なので寺が存続する限りは墓参が可能であるが、子孫の存続と寺の存続とではどちらが末永いかが、このような形式を取る際の判断材料だ。家内の家では二人の娘が他家を選んだので、この形にした。

お寺を辞して車は指宿の元湯に向かったが、南指宿中学校に近い柳田というところにある「光明禅寺」を訪ねてみたくて車を柳田信号で右折させた。

光明禅寺本堂の内。野口良雄師に本堂内部を拝見ささせていただいた。

最初期の本尊は十一面観音だが、鎌倉期に阿弥陀如来が加わった。

左手上の逗子の中には明治2年の廃仏毀釈の法難にあった際に打ち捨てられそうになったのを辛くも隠しおおせ、今に至るまで木造寄木造りの素晴らしく優美な鎌倉造形を余すところなく伝えている阿弥陀仏の立像がある。

惜しげもなく見せていただいたのには大感激であった。

さて正平山光明禅寺は鹿児島県でも一つか二つかしかない曹洞宗の禅寺であるが、『指宿市史』によるとこの寺の前身は「光明寺」といい、光明禅寺への道をさらに山手に200mほど上がった場所にあったという。

当時の宗派は「法相宗」で、開山は何とあの藤原鎌足の長子である「定慧(じょうゑ)」(定恵)だというのだ。

定恵は鎌足の庶長子だったらしいが、それでも当時最高の権力者であった藤原鎌足(614~669年)の子であれば官位に付けば相当な出世を果たしたであろうに、なぜか仏門に入り、その上、唐へ留学僧として渡っている。

定恵は在唐12年の長きにわたって仏教を学び、白村江の戦い(663年)で倭国軍が大敗したのちの665年に、唐からの使者・劉徳高の船で故国に還って来た(孝徳天皇紀5年の伊吉博徳書による注)。

※劉徳高は白村江戦役後の唐からの使者としては2番目で、最初の使節団(占領軍を含む)が倭国側と交渉し、当時の敗戦責任者(戦犯天皇)である天智に代わって誰かを即位させるよう促した際に、候補に挙がったのが中国語に堪能な仏教僧・定恵だった――と私は考えている。

さてこの留学僧定恵がなぜ指宿に渡来し、「光明寺」という法相宗の寺院を建立したのか。あるいはできたのだろうか? 

しかも指宿市史が引用する『三国名勝図会』ではその建立年代を文武天皇元年(697年)と特定している。

ところが定恵は697年まで存命しておらず、「孝徳天皇紀3年」の注によれば『藤氏家伝』に定恵は唐から帰朝した同じ年(665年)の内に亡くなったとあるのだ。

665年に死んだ人が697年に寺院を建立するわけはない。だとすると指宿市史が引用する『三国名勝図会』の記述が誤っていたことになる。

そこで私は次のように考えるのだ。

上の※の所で述べたように、唐としては敗戦国倭国の当時の天皇(ただし称制)である天智の天皇位を認めなかった。天智(中大兄皇子)は唐の占領軍によって戦犯として捕らえられそうになったが、うまく逃げおおせた。それが水鏡に書かれている「天智天皇の山科における行方知れず」だと思われる。

逃げおおせた先が、かつて皇太子時代に九州朝倉に「対唐・新羅戦大本営」を置いた際に九州を巡見して足を伸ばして各地を見聞した経験から、人的なつながり、特に水運を掌握していた南九州だったのではないだろうか。

天智天皇と南九州との関係は『三国名勝図会』にはこれでもかというほど描かれている。特に有名なのが志布志市における数々の説話である。

そして薩摩半島でも特に指宿及び開聞岳には天智天皇の遺称地が色濃く残っている。

そのことと天皇が股肱の臣とし、臣下として最高位の「大織冠」を死の間際に授けた藤原鎌足の遺児である定恵との繋がりは、深かったと考えられるのである。

そのことが、このような九州の果ても果ての南隅に、光明寺なる寺院を建立させた理由だったと考えてみたい。(以下②に続く)


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