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肝付氏初代系譜への疑問(2)

2024-03-18 10:14:10 | 鹿児島古代史の謎

肝付氏の名号が始まったとされる肝付氏初代兼俊とその父である伴兼貞との間に大きな年代差がみられるのはどうしてか、という問題に関して前回の(1)では大隅史談会の重鎮であった二人の会員の説を紹介した。

ひとりの竹之井敏先生の説は、その間、つまり兼貞の時代(1036年頃)から息子の兼俊の時代(1160年頃)までの間、伴氏は高山に入っておらず、櫛間院(宮崎県串間市)に院司として入っていた伴氏が高山を兼領していたのだろう――と結論された。

しかしこの説だと、当然、櫛間院系の文書に記載がなければならず、そのような文書がない以上無理な推論だと思われる。

またもう一人の当時副会長であった隈元信一氏の説は、伴兼貞のあとに3代から4代不明の後継者があり、その後に伴兼俊が肝付郡に弁済使として入部した。

その年代は兼俊の兄弟とされる梅北氏の祖兼高が、梅北の西生寺山王社の棟札に仁安2(1167)年の「大施主旦那・散位・伴朝臣兼高」とあることから、兄である兼俊の高山入部の時期は1160年代と特定される。

また兼俊の3代あとの第4代兼員が所領を譲られたのが文永11(1274)年であり、第5代兼石が所領を譲られたのが弘安6(1283)年であるという古文書が残されていることから、兼俊の高山入部が1160年代と考えて矛盾はない――こう結論付けた。

わたしも隈元説を採り、肝付氏系図上の初代肝付兼俊は1160年代になって肝付郡に弁済使職として入部し土着して肝付氏を名乗ったと考える。

したがって父とされる伴兼貞が平季基の拓いた都城の梅北を中心とする荘園の管理権を譲り受けた長元9(1036)とは約130年の開きがあり、この兼貞と兼俊の間に何代か存在したのだが、何らかの理由で抹消したのだろうと考えている。

【伴兼貞と肝付兼俊の間は平姓か】

鹿児島市の伊敷にあった神食村の「伴掾館(ばんじょうやかた)」に伴兼行が薩摩国総追捕使兼薩摩掾として居住したのは安和元年(968年)であった。

その孫の兼貞が(伝説めくが)宮崎の日南にある鵜戸神宮を参詣に訪れた時、途中で通過しようとした都城梅北で平季基に出会い、その娘を嫁にしたのがのちに兼俊が大隅に根付く最初の縁である。

平季基が史料の上で現れる最初は万寿3(1026)年に宇治関白藤原頼通に寄進したことである。当時の官位は太宰大監で中国と言われる薩摩国の国司相当の地位であった。

この平季基と薩摩掾の伴兼貞とでは官位に大きな差があり、兼貞はおそらく伴姓を捨てて平姓になったと私は考える。しかも平姓は桓武平氏と言われるように皇室の分流であったから、歴史は古いとはいえ家来筋の伴姓(起源は大伴氏であり、大伴氏の祖先は道臣命(みちのおみのみこと))より格も上であった。

この兼貞は長元9(1036)年に肝付郡弁済使に任用されたという(おそらく平兼貞としてであろう)が、肝付郡より先に、梅北をはじめとする日向の諸県郡の弁済使になっていなければなるまい。諸県郡は大変に広く、都城の大半はもとより、南に位置する志布志(救仁院)までその領域であった。

志布志町誌によると、志布志(救仁院)には同時代に伊佐平次(平氏)貞時の一党が入っていた。関白頼通に梅北庄を寄進した平季基はこの貞時の孫に当たり、伯父の宗行は太宰小弐という高官を歴任していた。

そしてまた平季基には弟の良宗があり、この人は高山の隣りに「姶良(吾平)庄」を拓いて正八幡宮(のちの鹿児島神宮)に寄進していた。

その年代を特定する資料が姶良八幡社(現在は田中八幡神社)に奉納した銅鏡の銘文に「長久元年(1040年)平判官良宗」とあることから、平季基が同時代に存在していたことは明らかである。

よって伴兼貞が平季基の娘と縁組したのは長元9年(1036年)で間違いなく、肝付氏初代とされる兼俊の高山入りは上述のように1160年代であるから、兼貞と兼俊は親子ではない。およそ130年の時間差があるので、兼貞と兼俊の間は仮に直系であれば4代ほどの世代があったと考えられる。

わたしはその4代(兼貞を含めれば5代)は伴姓を捨てて平姓であったと見る。平姓の方が伴姓より格が上であるし、何よりも都城の梅北を中心とする「主なき荒野を拓いて関白家に寄進し広大な荘園を安堵された」のが平季基であれば、平姓を使用するのに躊躇はなかったはずである。

先に引用した志布志町誌によると、平季基ぼ本家筋に当たる伊佐平次貞時の系譜の4代目に成任(なりとう)がいるが、彼は「安楽寺平次」とあり、その子の成助から「安楽氏」を名乗るようになった。

志布志の現在地名にある安楽は古代寺「安楽寺」から採られたと見るのが順当で、その前は当然この地区全体の「救仁院(くにいん)」を平次(平氏)に冠していた。こちらの方が正統な名乗りであったから、肝付氏の分流の「安楽氏」は伴姓とは言えず、正統は「平姓」だったと思われる。

同様に肝付氏本家も兼行の孫である兼貞からは平姓となったが、義父の平季基が長元2(1029)年、大隅国府の焼き討ち事件を引き起こしたりして平姓を名乗るのをためらったに違いない。

またその後も平氏と源氏の対立離反などが数多く発生し、最終的には平家の滅亡という最悪の事態に至り、志布志(救仁院)を支配していた平姓安楽氏は、伴姓に復帰した肝付氏初代兼俊の兄弟のひとりとして系譜に載せた時点で今度は平姓を捨てて伴姓を名乗るようになったのではないか。

ただ安楽氏にしろ肝付氏にしろ伴兼貞の後裔である以上、1030年代の伴兼貞時代以降4代から5代(130年)ほど続いた平氏時代の当主の名は抹消されたと思われ、不明とする他ない。

 

 

 


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