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黒海艦隊旗艦の沈没

2022-04-21 23:13:06 | 鹿児島古代史の謎
クリミア半島のある黒海に展開していたロシア海軍の「黒海艦隊」の指揮艦「モスクワ号」が、ウクライナの攻撃によって航行不能になりついに海の藻屑となったという記事に接し、薩英戦争の時にイギリスの旗艦「ユリアラス号」が薩摩藩の砲撃によって大損害を受けたことを思い出した。

文久2年(1862年)8月21日に横浜の生麦村で起きた「生麦事件」により、幕府と薩摩藩に対して損害賠償を要求したイギリスは、幕府からは10万ポンドをせしめたが、薩摩藩は賠償金の支払いがないうえ、殺された英国商人の下手人の処刑をも拒否されたため、ついに軍艦7隻を薩摩藩に差し向け脅そうとしたのであった。

文久3年(1863年)の6月27日に英国艦隊は錦江湾に入り、28日には鹿児島城下の目前に7隻の艦隊を布陣し、賠償の要求を迫った。

7月2日に至ってもなお薩摩藩が要求に応じないため、業を煮やしたイギリス側は、錦江湾奥に錨を下ろしていた薩摩藩有の汽船3隻を拿捕しようとした。

しかし事ここに至ってさすがの薩摩藩も砲撃を開始したのである。

慌てた英国艦隊は逃れようとしたが、旗艦ユリアラス号には砲弾が命中し、艦長および副艦長までもが砲弾の犠牲となってしまった。

しかし数時間後には英国艦隊からアームストロング砲による反撃が開始され、薩摩藩の砲台のほとんどがやられ、あまつさえ城下にも砲弾が飛んで大損害を被る羽目となった。

艦隊の指揮官が乗る旗艦がやられた意味は大きく、英国艦隊7隻は薩摩藩との交渉もせずに錦江湾を後にしたのであった。

薩摩藩側も英国艦隊のアームストロング砲の威力を目の当たりにして「攘夷」を完全に捨て、以後、軍備の近代化にまい進し始め、幕末では幕府をしのぐような近代的な防衛力を充実させるようになった。

(※奇しくもこの年と翌元治元年=1864年に起きた長州の馬関戦争によって敗れた長州藩が、近代的軍備の必要性に目覚めたのと軌を一にしており、この目覚めた二藩が土佐の坂本龍馬のあっせんで同盟関係を結んだことで、三年後に幕府を滅亡に追い込んだのであった。)

さてプーチン(ロシア)は、黒海艦隊の旗艦喪失を自爆のように報道しているが全くのフェイクで、事実、翌日にはその「仕返し」のため、撤退したはずのキエフ(キーウ)近郊を爆撃している。

このような「目には目を」的な仕返しをするようになったら憎しみの連鎖は続く。これによってプーチンの最期は近くなった。最終章の幕は切って落とされたとしか言いようがない。




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