鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

見落としそうになった苦労

2024-07-06 20:51:04 | おおすみの風景
昨日7月5日付の新聞の投書欄に載った投書は肺腑をえぐるものだった。

77歳の女性が投稿したものだが、彼女は貧しくて中学校の時、弁当を持っていけなかったそうである。

だから昼食の時間は一人だけ外で時間をつぶして過ごしたという。

小学校時代は給食があったのでそういうことはなかったのだろうが、中学校で給食が無かった時代の過酷な実態に身をつまされる。

昭和31(1956)年に中学校でも給食が始まっているので、この人の在籍した中学校は大分遅れて完全給食になったようだ。

ただ、彼女の窮状を見かねてとある教師がお金をくれてパンを食べるように言ってくれたそうで、その教師の温かさがよほどうれしかったらしい。

高校へ行って教師の道を目指したかったのだが、1962年に中学校を卒業すると集団就職の列車に乗る他なかったようで、高校に行くべき3年間を家への仕送りに当てたというのだ。

その後の人生経路は書かれていないのだが、後期高齢者になった今日まで人を教え導く教師へのあこがれは続いていたが、さすがに今は後進が教育に進むのを後押ししたいという境地に変わったという。

学校でみんなが弁当を持って来たり、家の近い子は帰って食べて来たりする中で、家に帰っても食事の準備がないいわゆる「欠食児童」は戦前だけかと思っていたのだが、この女性のようなことが戦後にもあったと知って驚いた。

この投稿を読んで「欠食児童」の中でとんでもなく大きな人物になったのがいたのを思い出した。、歌手のバタやんこと田端義夫だ。

彼の家は8人か9人兄弟だったが、父親がバタやんがまだ3歳くらいの時に亡くなり、自分と下の弟だけは母のもとに残り、あとの兄姉は他家に貰われたり丁稚に出されたりした。

母親は当然働きに出ることになったが、昭和初期に女の働き口は限られていたので、当然収入は低く、当時は小学校へ上がっても給食はなく、バタやんはこの女性のように学校に弁当を持っていけず、昼食時間は校庭で過ごしたそうだ。

ただ母親は帰ると近くの川でバタやんと弟に歌を聴かせた。バタやんも一緒に唄ったに違いなく、これがバタやんを歌に結び付けることになった。母親の寄り添いは限られていたが、今で言う「英才教育」の走りだったかもしれない。

バタやんは尋常小学校を出てすぐに働きに出たが、歌がうまいのでそれなりの評価の下、歌手への道を歩み始め、大成につながった。

バタやんの片眼はそんな子供時代の栄養不足のためほとんど視力を失っていたらしいが、おくびにも出さないで歌手生活を全うしたのはあっぱれという他ない