鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

この秋、2冊の歴史本を読む

2023-11-09 20:27:50 | 鹿児島古代史の謎

今年の秋、神奈川県在住で所属していた大隅史談会に寄稿していただいた右田守男氏と、こちらは直接の関わりは持たないのだが邪馬台国関連の著書を出した天川勝豊氏の上梓した本の2冊を読むことになった。

 1【右田守男『サツマイモの伝来の真相』を読む】

右田守男氏のは「カライモおんじょ」と鹿児島弁で称されている「前田利右衛門」の素性への異論である。

私が会長を務めていた大隅史談会の研究誌「大隅60号」(2017年4月発行)に寄稿したのが最初で、前年の秋、右田氏が拙宅を訪れて氏の実家の系図と共に切々と寄稿文の内容を語って聞かせてくれた。

そこで是非とも論文に纏めて大隅60号の出版に間に合うあうように送ってくれないかと慫慂したところ、氏は急ぎ論考を仕立てて寄越したのだった。

その内容はーー山川徳光神社に祭られている人物は決して琉球からサツマイモの苗を持って来て鹿児島に広めた恩人ではなく、鹿屋市高須の郷士であった右田利右衛門こそが琉球から持参して高須を始め大隅地区に広めた先駆者であったことを自分の家に伝来して来た古系図に即して立論したのが氏のまとめた『サツマイモ本土伝来の真相』である。

※『サツマイモの伝来の真相』は東洋出版刊、2023年10月17日発行

右田氏の先祖は代々高須の士族であったが、その先は藤原鎌足であったという。ただし、鎌足を鼻祖とする士族は大変多く、ほとんどは傍系のまた傍系というような繋がりでしかないが、とにかく鼻祖を藤原鎌足としており、源平以降の平安末期からの士族系譜とは一線を画している。

右田家に残されていた系図ではサツマイモ伝来の時期に3人の官途名「利右衛門」がいた。右田利右エ衛門尉秀長・同秀純・同秀門である。親子3代で、秀長は寛永10年(1633)死亡、秀純は慶長11年(1606)誕生、寛文4年(1664)死去、そして秀門は寛永13年(1636)の生まれ。

3代にわたりすべて官途名は「利右衛門」であった。特に祖父の秀長は慶長7年(1602)に当時の薩摩藩主島津義久の御朱印状が下され、「琉球国買整御用物(琉球国での御用物を買い整えた)」という。

この藩主が欲した「御用物」の中身は不明であるが、その中に薩摩芋の苗があったとしてもおかしくはない。事実、1609年に薩摩藩が「琉球征伐」を敢行し、琉球王を従えたとき、薩摩藩士が帰藩する前に薩摩芋の苗を受け取ったかのような記述があるのだ。

一般に言われている薩摩半島山川の漁師「前田利右エ門」が琉球から持ち帰り、故郷に広めた――とする説より約100年も前に右田利右衛門によってすでに高須を起点にして大隅半島に薩摩芋の栽培が始まったと考えた方が説得力がある。

そもそも漁師が「前田」という姓を名乗ることの方がおかしい――というのは私のみならず、多くの識者が感じていたことであった。証明するような古文書もない。

ただ幕末の薩摩藩地歴書『三国名勝図会』の山川郷には「利右衛門甘藷の功」という項立てがあり、

<利右衛門は山川郷大山村岡児ヶ水(おかちょがみず)の漁戸なり。寛永2年(1705)、琉球より携えて帰る。これより甘藷ようやく諸方にひろまり、人民その利益を蒙るといへり。利右エ門、寛永4年(1707)7月死す。(中略)その苗孫いつの頃にか絶えて無し。>(熊本青潮社版、第2巻506ページ)

と記されている。

士族ではなく漁戸すなわち漁民だとしているのだが、「利右衛門」という士族に特有の官途名は有り得ず、例えば「佐吉」とか「弥助」とかいう名なら分かるが、利右衛門まして「前田利右衛門」はもっとあり得ない。

しかも帰郷してからわずか2年後には亡くなっているのだ。新規の栽培を普及するには余りにも短すぎる一生であり、これも不審である。わざとサツマイモの琉球からの伝来の真相をあいまいにするかのような書きぶりである。

このような点から右田氏は「琉球からサツマイモ(の苗)を持参し、領有する高須一円に栽培を試みて成功したのは戦国末期から寛永の中期まで高須を治めていた右田利右衛門尉(じょう)秀長・秀純・秀門の三代で、彼らこそがサツマイモを伝来し普及させたカライモおんじょこと前田利右衛門であった」と結論付けている。

私はこの説に大いに与したいと思う。(※なぜ右田氏の功績を書かなかったのかは、一言でいえば、徳川新政府に対して薩摩藩と琉球との交易上の利益に関しては秘密にしておく必要があったから、だろう。)

もう1冊は天川氏の『邪馬台国、それは・・・の地に』(学修院発行。2023年7月7日刊)の紹介は次回に。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿