鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

熊襲・隼人・薩摩・鹿児島という古称(2)

2020-07-07 17:48:01 | 鹿児島古代史の謎
(1)では熊曽・曽人・隼人の由来を述べたが、(2)では「薩摩」「大隅」についてその由来を考察する。


   薩摩(さつま)

薩摩の初見は、日本書紀の孝徳天皇4年(653年)に見える遣唐使・高田根麻呂の乗った船が「薩麻の曲、竹島の門で難破した」とある「薩麻」が最初だが、地域の動きが見えるのが『続日本紀』の西暦700年の記事である。

――「薩末(薩摩)のヒメ・クメ・ハヅ」という女首長が、衣君(頴娃町が遺称)や肝衝氏とともに、大和王権が派遣した南島への調査団を脅迫した。

これに対して大和王権は筑紫惣領(太宰府の前身)に決罰させたという――。

脅迫及び決罰の内容については記されていないが、薩摩は2年後の702年に種子島とともに国衙が置かれたようなので、薩摩側はかなり厳しい取り扱いを受けたようだ。

この記事では薩摩では女首長がトップにいたことが知られるが、とにかくサツマなる固有名詞が初めて登場した。(※わずか二年後の702年に「薩末」は「薩摩」に変わる。)

まず、「サツマ」という和語だが、これは何に由来するのだろうか。

「幸津間」(さち・つ・ま)がまず考えられるだろう。「幸」は海幸の幸であり、ハヤトの祖先とされる海幸彦ことホスセリ(ホデリ)のいたのが、南九州であった。

「さちつま」の転訛として「さちしま→さつま」は無理のないように見える。

しかし私見では「ソツマ」である。「曽津間(そつま)」から「サツマ」への転訛を考えている。「そつま」とは「曽の国」であり、熊を冠すれば「熊曽国」すなわち南九州の敬称であった。

やはり「曽の国」は簡単には捨てられない祖先伝来の国名であった。そこで「ソツマ」を名乗ったのだが、大和王権からの国まぎの使いは「サツマ」と聞き及んだのだろう。ソツマよりサツマの方が響きは確かによい。

こうして「サツマ」という呼称が生まれたのだが、これを漢字二字のしかも佳字を当てるとなった時に、おそらく仏教に精通した使いか、あるいはすでに仏教の指導者がいたのか、サツマを「薩摩」に当てのだろう。(※すでに持統天皇の6年=692年、天皇は太宰府に対して、大隅・阿多に沙門=僧侶を派遣して仏教を伝えるよう命じている。)

というのも、この「薩摩」という漢字が登場するのは、仏教の「回向文(えこうもん)」だからである。

長文の仏教経典を読経した後、最後に「回向文」(普回向ともいう)を唱えるのだが、その中に「薩摩」が現われる。

――願わくば、この功徳を以て、普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを。
  十方三世一切仏 諸尊菩薩摩訶薩 摩訶般若波羅蜜
  (※十方の先祖一切 仏教の先達特に「薩}に帰依する 般若の教えに帰依する)

最後に7文字の漢字が続くが、二句目の斜線を引いた箇所が「薩摩」である。この「薩」とは観世音菩薩を一字で表したものという。衆生を救ってくれる観世音菩薩と、般若(智慧)の教えに従います――という結びだが、ここに「薩摩」漢字の起源があると見たい。


  大隅

記紀で大隅が見えるのは、応神天皇の「大隅宮」が初見である。ただしこの大隅は大阪の摂津の国にあることになっているので、鹿児島の大隅とは所縁がない。

あとはぐっと時代が下がって天武天皇の11年に「大隅隼人と阿多隼人が朝貢し、朝廷の前の大きな槻木の下で相撲を取り、大隅隼人が勝った」とある記事が大隅隼人の最初になる。

この時代はいわゆる律令制による中央集権国家建設が急ピッチで行われており、鹿児島はじめ南島に至るまで「国まぎ」(国勢調査)のうねりの中にあった。

少し遅れて南島からも多数の朝貢があったが、令制国とし一国の形態を取るようになったのは、薩摩国・大隅国・多禰国の三か国であった。

このうち薩摩国と多禰国は702年に一足早く国衙が置かれたが、大隅国は11年後の713年を待たなければならなかった。

薩摩は上述のように「ソツマ→サツマ→薩摩」と辿れ、多禰は今日でも使われている「たねがしま」のままであるが、大隅に関しては全くの造語であったと考えられる。

930年頃に編纂されたという『倭名類聚抄』の中に「諸国郡郷一覧」があるが、その中の「西海道」(九州)の部を調べてみると、大隅国の郡郷の一覧がある。

大隅国の建国当時の四郡は、「大隅・肝杯・姶羅・囎唹」であるが、大隅郡以外の郡名の下には万葉仮名で、肝杯なら「岐毛都岐」、姶羅なら「阿比良」、囎唹なら「曽於」というふうに読み方を注記してある。

ところが大隅だけにはこれがない。

もし大隅が現地にもともとあった地名なら「意富須美」というような読みを注記したはずである。そうしなかったのはこの「大隅」は大和王権側の命名だからだ。向こうで名付けたのだから大和王権側に間違わないように読みを注記する必要はないわけである。

大和王権が大隅半島部中心部の肥沃な平野部を「大隅郡」として囲い込んだことは、半島のほぼ中心にある「姶羅郷」が姶羅郡の中に無くて大隅郡の中に入っていることではっきりする。

大隅国の中でもっとも肥沃であり、中心的な地域を、大和王権が直轄地のように囲い込み、そこを大隅郡と名付け、国名も大隅国としたのだろう。

不可解なことに大隅国の国衙(国庁)が最も肥沃な大隅半島部の大隅郡にではなく、曽於郡でも北の現在の霧島市国分に置かれたが、これは大隅半島部の隼人の勢力(私見ではこれを肝衝難波の一族と見る)が隠然として侮りがたい大きなものだったことを物語っていると思われる。


   阿多

阿多隼人は大隅隼人と同じ天武11年(683年)に初見の名である。もっとも天孫降臨神話の二ニギの妃となったカムアタツヒメの「アタ」としてすでに「アタ(吾田)」は見えているが、史実としての存在は683年が初めてである。

この阿多は狭く見れば薩摩半島南西部に位置する金峰町阿多一帯を指すが、広く見れば薩摩半島部全体を代表している地域の古称である。

私見ではアタは「ワタ」すなわち「海」の転訛で、カムアタツヒメの父はオオヤマツミなので一見すると山の神系統と思われるが、船通山(センツウザン・ふなどおしやま)の名に負うように、海の民にとって秀麗な山は航海の目当ての山として尊崇されている。

<② 終わり>

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