鴨着く島

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「成會山陵」の謎(『続日本紀』散策①)

2021-11-03 14:43:37 | 『続日本紀』散策
【はじめに】

『続日本紀(しょくにほんき)』は文字通り『日本書紀』の続きとして編纂された正史で、文武天皇の即位元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)に到る事績が紀年体で記されている。

勅令を出したのは桓武天皇で、延暦16年(797年)には撰修完成している。撰修者の代表は藤原継縄であった。

撰修完成の年と、事績の最後の年との間はわずか6年しか離れておらず、同時代史と言ってよい歴史書である。

日本書紀が「日本は万世にわたって列島内で後継を繰り返して来た一系の王統が治める国である」というビジョンの下に、その不合理を破綻させずに何とか書き記した史書であるのに比べ、続日本紀はそのようなバイアスを持たずに、坦々と事績をつづっているのが特徴である。

と言ってももちろん「アメリカファースト」ならぬ「天皇家ファースト」という史観は大前提としてはあるので、そこは勘案しつつ読んでいかねばならない。

【成會山陵とは?】

続日本紀で私など南九州に住む歴史愛好家にとっては、「大隅国の建国」や「隼人の叛乱」に関する記事に最も興味があって読み出したのだが、その中で「これは?」と思う記事も多々あり、中でも興味をそそられたのが、次の記事である。

<8月戊申(3日)、宇尼備、賀久山、成會山陵、及び吉野宮辺りの樹木、故なくして彫枯す。>(文武天皇4年(700年)8月3日条)

宇尼備は「畝傍」、賀久山は「香久山」、吉野宮は今日でも「吉野宮」だが、「成會山陵」はどこだろうか。

私は畝傍(山)、香久山と並んでいるので、首を傾げつつも「耳成山」のことだろうと思った。成會山陵の「成」が共通であることもそう合点した理由である。

さらに吉野山に所在する吉野宮とくれば、なるほど畝傍山にしろ香久山にしろ耳成山にしろ、すべて広大な山であるわけだからそこには樹木が鬱蒼と茂っている。その樹木が理由なく枯れている――という記事である。

原因がわからずに枯れるという点では、松くい虫の被害ではないかと思わされるのだが、この記事は単独でただこの一文でしかない。例えば、枯た樹木を切り出して処分させたとか、枯れた木を割ってみたらなかから虫が出てきたとかいった続きは記されていないのである。

文武天皇の宮である藤原宮を取り巻くように聳えている畝傍山、天の香久山、耳成山の山肌の樹木が枯れて赤茶色に変色した姿は、たしかに痛々しく、記事として取り上げるに値したのだろう。

ただ気になったのが、成會山陵であった。

というのは耳成山が「山陵」と表現されているという疑問である。「山陵」とは、南九州で皇孫三代に関わる「神代三山陵」として使われているように、「陵墓」のはずである。

耳成山が陵墓であるとは聞いたことがない。

私はこの点について御所市だったか桜井市だったか失念したが、ともかく近辺の大きな町の教育委員会に電話を入れて確かめてみた。

すると返事はこうであった。

――續日本紀のその記事が指している成會山陵とは、「成相墓(ならいのはか)」ですよ。延喜式の諸陵式に出ています。墓の主は押坂彦人大兄(オシサカヒコヒトノオオエ)皇と見られ、舒明天皇の父に当たる方です。広瀬郡にある牧野(ばくや)古墳が皇子の墓だとされています。

確かに諸陵式には「成相墓」があり、どうやら間違いはない。しかし、その墓地の規模(兆域)を見て驚いた。何と、「東西15町、南北20町」とあるではないか!

最も墓域の広いと考えられている「大仙陵古墳」(仁徳天皇陵)の兆域は「東西、南北ともに8町」なのである。8町とは約860メートルであり、これだけあれば世界最大という墳丘の長さ450メートル(周濠を入れて約700メートル弱)はすっぽり収まる。

ところが牧野(ばくや)古墳は直径が60メートルの円墳であり、これなら兆域はせいぜい2町四方もあればおつりが来る。

それなのに東西15町、南北20町、即ち仁徳天皇陵の4倍の面積がある、というのはどういうことか?

成相墓を押坂彦人大兄皇子の墓とするのは間違いだろう。なぜなら押坂皇子の子は舒明天皇になったのだが、皇極天皇の2年9月条に、舒明天皇を「押坂陵」に埋葬したという記事があるのだ。舒明天皇の父が「押坂彦人大兄」であるのならば、同じ押坂(桜井市)の内に葬るのが普通であろう。

それをわざわざ押坂から遠く離れた広瀬郡内に墓を造営し、後世名「牧野古墳」に埋葬するわけがないのだ。

私は「成會山陵」は耳成山そのものだと思う、そもそも耳成山は「みみなし」とは読めず、「みみなり」である。「みみなり」と言えば、南九州投馬国の女王が「彌彌那利」(ミミナリ)であった。

畝傍山の東北陵に埋葬されたのが神武天皇(私見では投馬国王タギシミミ)であり、妻たる「ミミナリ」は耳成山に葬られたのが真相であろう。耳成山の呼称こそ逆にそこに「ミミナリ」が埋葬されたから付いた名だろう。耳成山は人工的な陵墓であった可能性が高い。

大和三山の内では最も低いながら、非常に整った秀麗な容姿で、人の手が加わったような山容である。

耳成山こそが「成會山陵」という神代三山陵風の陵墓名である「山陵」に違いないと思うのである。






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