今日のイギリスは新国王チャールズの戴冠式でにぎわった。
エリザベス女王が昨年亡くなり、後継者である女王の長男チャールズ皇太子が、今日、正式なイギリス国王になった。
ウェストミンスター寺院で行われた戴冠式ではイギリス国教会のカンタベリー大司教の先導で、体の一部に「聖油」を塗る「塗油」の儀式が行われたあと、同じ大司教からチャールズ皇太子の頭に王冠が載せられた。
この瞬間に皇太子はイギリスおよびイギリス連邦15か国の統治者となった。
第二次大戦後それまで大英帝国の領域であった連邦諸国はそれぞれが独立した民主国家になったのだが、形式的にはまだ英国の支配下にある。
かつてはイギリスから派遣された「総督」が国王の代官として国を運営していたのだ。
その是非やそもそもイギリスに国王が必要かという議論がエリザベス女王亡きあと、英国民の間で巻き起こっている。特に若い世代では60パーセントの高率で「国王の戴冠式には興味がない」という世論調査の結果だったそうである。
それでも新国王の座った椅子が700年前の物であったり、当の王冠も400年前からの物であったりすることが報じられると、やはり伝統の重さがひしひしと感じられる。
ヨーロッパではまだいくつかの王国が存在するが、現在も家系的に繋がっている王朝としては、やはりイギリス王国が最も古いようだ。
遥か古代に目を向ければヨーロッパの王朝ではギリシャ・ローマの王朝がダントツに古く、その後はキリスト教に基づく神聖ローマ帝国が近代に至るまで続いたが、どの帝国も遠い昔に世襲の王家は絶えている。
そんなヨーロッパの王室をよそに、アフリカで紀元前から続く王家として名乗りを上げたのがエチオピアだった。エチオピア帝国の初代は古代イスラエルのソロモン王だというのだ。ソロモン王は紀元前900年代の王であったから、そこから数えれば優に2900年を数える超長期的な王家ということになる。
戦前の日本では天皇家の初代神武天皇の即位は紀元前660年とされていたから、日本はエチオピアに続く長期の王朝を存続させていたわけだが、エチオピアはハイレセラシエ皇帝がクーデターにより1974年に廃位されて王朝が滅んだので、今日もっとも長く続く王家は我が日本である。
ただし今日の学説では神武天皇の即位の紀元前660年は否定されている。
戦後はいわゆる「皇国史観」(大日本帝国史観)が葬られ、それに代わって「邪馬台国王朝」「崇神王朝」「応神王朝」「仁徳王朝」など多様な解釈による初代王朝への探索が施された。
中でもよく取り上げられたのが、今挙げた「崇神」「応神」「仁徳」各天皇による「三王朝交代説」だろう。この説は早稲田大学教授の水野祐によって唱えられた。皇国史観による天皇の「万世一系」が否定される根拠とも言える考え方であった。
自分も神武天皇からの「万世一系」は有り得ないとする立場だ。私は神武天皇を記紀で神武天皇の息子とされるタギシミミのことと考えれば、古日向(南九州)からの「神武東征」(その実は移住)による橿原王朝はあったとする。
ただその後は第10代とされる崇神天皇(王朝)に取って代わられ、さらにその後、仁徳天皇、欽明天皇で血筋の一系は変わり、最終的に現在の天皇家につながる血筋の初代は天武天皇ではないかと考えている。
天武天皇及び皇后で天武亡きあとに皇位に就いた持統天皇の世代に記紀の編纂が開始され、伊勢神宮の式年遷宮が始まったのも天武天皇の時で、古代天皇制の画期を生んだのが明日香・藤原宮の時代であった。
※天武天皇は第40代。在位673年~686年。皇后であった持統天皇が後を継ぎ第41代。在位687年~697年。皇子の軽太子(文武天皇)に生前譲位した。
天皇の家系がそんなに頻繁に変わるはずはないと思われがちだが、2世紀に古日向から大和入りした神武(タギシミミ)王朝、北部九州から大和入りした崇神王朝、再び古日向からの応神王朝、畿内河内を中心とした仁徳王朝、そして山城の欽明王朝というふうに古代以前の天皇家は5回ほど血筋を変えている(と私は思っている。この点についてはこのブログの「記紀点描」に詳しい)。
それでも天武天皇からの約1350年間はほぼ一系の血筋を貫いているのだ。その一方でイギリスでは1066年にノルマン公ウイリアムがノルマン王朝を開いて以来、現在のウインザー朝まで約960年の間に6王朝が盛衰している。
ウインザー朝などは1917年に今度のチャールズ国王曾祖父のウインザー公ジョージ5世から始まったもっとも若い王朝である。王朝は交代しても国王に変わりはないというのがイギリスの国王の在り方であり、日本でも今後はもう少し天皇家の皇族の範囲を広くとらえ、皇位継承に幅を持たせた方が良いのかもしれない。
エリザベス女王が昨年亡くなり、後継者である女王の長男チャールズ皇太子が、今日、正式なイギリス国王になった。
ウェストミンスター寺院で行われた戴冠式ではイギリス国教会のカンタベリー大司教の先導で、体の一部に「聖油」を塗る「塗油」の儀式が行われたあと、同じ大司教からチャールズ皇太子の頭に王冠が載せられた。
この瞬間に皇太子はイギリスおよびイギリス連邦15か国の統治者となった。
第二次大戦後それまで大英帝国の領域であった連邦諸国はそれぞれが独立した民主国家になったのだが、形式的にはまだ英国の支配下にある。
かつてはイギリスから派遣された「総督」が国王の代官として国を運営していたのだ。
その是非やそもそもイギリスに国王が必要かという議論がエリザベス女王亡きあと、英国民の間で巻き起こっている。特に若い世代では60パーセントの高率で「国王の戴冠式には興味がない」という世論調査の結果だったそうである。
それでも新国王の座った椅子が700年前の物であったり、当の王冠も400年前からの物であったりすることが報じられると、やはり伝統の重さがひしひしと感じられる。
ヨーロッパではまだいくつかの王国が存在するが、現在も家系的に繋がっている王朝としては、やはりイギリス王国が最も古いようだ。
遥か古代に目を向ければヨーロッパの王朝ではギリシャ・ローマの王朝がダントツに古く、その後はキリスト教に基づく神聖ローマ帝国が近代に至るまで続いたが、どの帝国も遠い昔に世襲の王家は絶えている。
そんなヨーロッパの王室をよそに、アフリカで紀元前から続く王家として名乗りを上げたのがエチオピアだった。エチオピア帝国の初代は古代イスラエルのソロモン王だというのだ。ソロモン王は紀元前900年代の王であったから、そこから数えれば優に2900年を数える超長期的な王家ということになる。
戦前の日本では天皇家の初代神武天皇の即位は紀元前660年とされていたから、日本はエチオピアに続く長期の王朝を存続させていたわけだが、エチオピアはハイレセラシエ皇帝がクーデターにより1974年に廃位されて王朝が滅んだので、今日もっとも長く続く王家は我が日本である。
ただし今日の学説では神武天皇の即位の紀元前660年は否定されている。
戦後はいわゆる「皇国史観」(大日本帝国史観)が葬られ、それに代わって「邪馬台国王朝」「崇神王朝」「応神王朝」「仁徳王朝」など多様な解釈による初代王朝への探索が施された。
中でもよく取り上げられたのが、今挙げた「崇神」「応神」「仁徳」各天皇による「三王朝交代説」だろう。この説は早稲田大学教授の水野祐によって唱えられた。皇国史観による天皇の「万世一系」が否定される根拠とも言える考え方であった。
自分も神武天皇からの「万世一系」は有り得ないとする立場だ。私は神武天皇を記紀で神武天皇の息子とされるタギシミミのことと考えれば、古日向(南九州)からの「神武東征」(その実は移住)による橿原王朝はあったとする。
ただその後は第10代とされる崇神天皇(王朝)に取って代わられ、さらにその後、仁徳天皇、欽明天皇で血筋の一系は変わり、最終的に現在の天皇家につながる血筋の初代は天武天皇ではないかと考えている。
天武天皇及び皇后で天武亡きあとに皇位に就いた持統天皇の世代に記紀の編纂が開始され、伊勢神宮の式年遷宮が始まったのも天武天皇の時で、古代天皇制の画期を生んだのが明日香・藤原宮の時代であった。
※天武天皇は第40代。在位673年~686年。皇后であった持統天皇が後を継ぎ第41代。在位687年~697年。皇子の軽太子(文武天皇)に生前譲位した。
天皇の家系がそんなに頻繁に変わるはずはないと思われがちだが、2世紀に古日向から大和入りした神武(タギシミミ)王朝、北部九州から大和入りした崇神王朝、再び古日向からの応神王朝、畿内河内を中心とした仁徳王朝、そして山城の欽明王朝というふうに古代以前の天皇家は5回ほど血筋を変えている(と私は思っている。この点についてはこのブログの「記紀点描」に詳しい)。
それでも天武天皇からの約1350年間はほぼ一系の血筋を貫いているのだ。その一方でイギリスでは1066年にノルマン公ウイリアムがノルマン王朝を開いて以来、現在のウインザー朝まで約960年の間に6王朝が盛衰している。
ウインザー朝などは1917年に今度のチャールズ国王曾祖父のウインザー公ジョージ5世から始まったもっとも若い王朝である。王朝は交代しても国王に変わりはないというのがイギリスの国王の在り方であり、日本でも今後はもう少し天皇家の皇族の範囲を広くとらえ、皇位継承に幅を持たせた方が良いのかもしれない。
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