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景行天皇のクマソ親征(1)(記紀点描⑫)

2021-09-01 09:33:11 | 記紀点描
先日のブログ「邪馬台国問題 第14回」では狗奴国を取り上げたが、狗奴国は熊本県の菊池川以南を占める大国で魏志倭人伝時代の当時、八女邪馬台国(女王国)とは敵対関係にあった国である(菊池川以南の現在の熊本県が領域)。

西暦247年にヒミコが死ぬと、女王国では大きな混乱があったが、ヒミコの一族の娘トヨが擁立されて何とか収まった。この混乱に乗じて狗奴国が侵攻して来たかと思えばそれは無かったようである。

というのは、西暦266年に魏に代わって晋が王朝を開くと、それに対して「倭の女王が朝貢して来た」と『晋書』の「武帝紀」に記載されているから、少なくともこの時点では、トヨが「倭の女王」の地位にあったと考えてよい。

しかしこのトヨの朝貢に対して晋王朝が、先の王朝の魏がヒミコに「親魏倭王の金印」を以て応えたような扱いはしなかったようである。その理由は分からない。だが、実際には貰っているのだが、ただ単にそのような記載がないというだけの話なのかもしれない。不明とする他ない。

では、このトヨ女王の支配する八女邪馬台国は、その後、つまり266年以降はどうなったのだろうか。

これについては明確な史料はないのであるが、日本書紀の景行天皇紀に見える「クマソ親征説話」に、邪馬台国と狗奴国の動静に関係ありそうな興味深い記事があるので紹介しよう。

 【景行天皇のクマソ親征と九州巡狩】


~景行天皇の南九州クマソ親征ルート図~

これを「景行天皇の九州巡狩」という場合があるが、ここでは「クマソ親征」とする。景行天皇の12年7月に「クマソが反して朝貢をしない」として8月に筑紫に向けて出征し、その後豊前に上陸し、豊後を通過して11月に日向の「高屋宮」の行宮に滞在して南方のクマソを撃ち平らげた。

日向のこの高屋宮には6年居住し、その後は豪族との戦いの描写はなく、18年の3月から今日の宮崎県小林市からえびの市を通って国境を北に越えて人吉市へ。ここから球磨川沿いに下って葦北、八代へ。船で島原の高来に渡り、今度は玉名に戻り、阿蘇に行っている。そして阿蘇から「御木国」(三池郡・大牟田市)に至った時に「高田行宮」に滞在している。

ここからさらに八女市郡域(八女国)を通過して筑後川中流の浮羽に到るのだが、そこからどのような経路で大和に帰ったのかの記載はないが、19年の9月に「天皇、日向より至り給う」とあって纏向の日代の宮に帰着したことが記されている。

前半の高屋宮に6年滞在して南九州のクマソを撃ったのが「クマソ親征説話」で、その後大和に帰る経路として宮崎県南部から熊本県の大部を抜け、福岡県の筑後を通過して行った時の見聞が「九州巡狩説話」と分けられるのであるが、前置きで「邪馬台国と狗奴国の動静に関係ありそうな記事」と言ったのは後半の「九州巡狩説話」に見える記事である。

その部分を次に掲載するが、例によって現代仮名遣いで表示してある。

〈(18年秋7月、筑後国の御木に到りて、高田の行宮にまします。
 時に倒れたる樹あり。長さ970丈、百寮、その樹を踏みて往来す。
 時の人、歌って曰く、
  朝霜の 御木のさ小橋 群臣 い渡らすも 御木のさ小橋
 ここに天皇、問いて曰く「これ何の木ぞ」。ひとりの翁ありて申さく、
「この木は歴木(くぬぎ)という。昔、倒れざる先は、朝日の光に
 当たりて、杵島の山を隠しき。夕日の光に当たりては阿蘇山を隠しき。」
 天皇曰く「この木は神木なり。かれ、この国を御木国と号せ。」と。〉

この記事に対応するのは上の掲げた「景行天皇の南九州クマソ親征ルート」の中の、女王国(八女)と記したすぐ南の〇で、斜線を引いて説明を加えてある箇所である。

そこは「高田行宮(たかたのかりみや)」のあったところで、地名で言えば現在の筑後の三池郡(大牟田市)になる。

そこに長さが970丈もある大きな倒木があった。天皇が驚いてその木のことを問うたところ、土地の古老が言うには「昔、この木が倒れない頃は、この木に朝日が当たると影が肥前の杵島山まで達し、夕日は阿蘇山まで達していました。」と。

天皇は「この木は神の木である。よってこの土地を御木国と呼びなさい」とおっしゃった。その結果この土地を「御木」(三池)と言うようになったという。(※巨木の朝日に当たった時の西側の影と、夕日に当たった時の影の東側の範囲が、そこに存在した勢力の統治領域だと考えてよい。)

大きなクヌギの木が倒れていたからその木に因んで「御木国」となったというのはよくある地名譚。だが、この倒木の長さ(高さ)がべらぼーなのである。何と970丈というのだ。一丈は約3メートルであるから、970丈は2910mだ。

もとより誇張だが、誇張にしても970丈とは何か半端である。1000丈とか「白髪三千丈」ふうに3000丈ならまだしも、970丈というのは誇張のための形容としては半端過ぎる。

そこでその半端な数字そのものに意味があるのではないかと考えてみた。すると、97は「クナ」と読み替えられるのに気付いたのである。「クナ」とは狗奴国のことではないか、と気付いたのであった。

また木の種類が「クヌギ(櫪)」だったとあるが、これはまさに「狗奴(クヌ)城(ギ)」ではないか。つまり「狗奴城」(狗奴国の城)を意味しているのではないかと思ったのである。

以上から言えることは、この御木(三池)にかつては狗奴国の城があり、その勢力範囲は西は肥前の杵島山(佐賀県武雄市)から東は阿蘇山まであったが、景行天皇が巡狩した時代すでに城は崩壊していた――ということだろう。

景行天皇の時代観を言えば、祖父の崇神天皇(北部九州の大倭)が大和への東征を果たしたのが270年頃であるから、三代目ならおおよそ330年から350年の間ではないかと思われる。

この頃、狗奴国は今日の大牟田市にあった「狗奴城」から撤退しており、古来の(魏志倭人伝時代の)狗奴国の領域すなわち菊池川以南へ戻っていたということだろう。

狗奴国が菊池川以南にその勢力を保持していたことは、この巡狩ルートで、どういうわけか八代まで来てから何の前触れもなく天草海を船で島原の高来邑に渡り、今度はそこから玉名にわたっていることで判明する。要するに狗奴国の本拠地である今日の熊本市や御船町、宇土市、そして八代市の北部一帯を避けているのである。ここが狗奴国(クマソ国)の牙城だったということに他ならない。

一方、邪馬台国の女王トヨは文献上は西暦266年までは確かに存在したと思われるのだが、その後、南にある狗奴国が北進して八女邪馬台国を併呑したと考えられる。その時にトヨは辛くも筑後山地に分け入って逃れ、豊前に行ったのではないかと思われるのだが、これについては「景行天皇のクマソ親征(2)」において、鹿児島の大隅半島にあったと思われる厚カヤ・狭カヤの「クマソ国」とともに述べたい。

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