鴨着く島

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肝衝難波(『続日本紀』散策③)

2021-11-29 12:00:00 | 『続日本紀』散策
【はじめに】

肝衝難波は「きもつきのなにわ」と読む。(※以下、単に難波と書いて行く。)

難波は、文武天皇の4年(西暦700年)に、薩摩ヒメ(クメ・ハヅ)、衣(頴娃)君とともに、朝廷が派遣した「覓国使(ベッコクシ=国境調査団)」の刑部真木一行を脅迫したことで、筑紫総領(のちの大宰府)によって罰せられた――と記されたうちの大隅半島側の首長である。

今回はこの難波にスポットを当てたい。

続日本紀ではその姓を「肝衝」と書くが、これは「肝属」でも「肝付」でも「肝坏」でもよく、いずれも「きもつき」と読む。

西暦713年4月の記事に、<日向から肝坏・曾於・大隅・姶羅の四郡を割いて大隅国とする>という記事があり、この時点で古日向は薩摩国(702年に建国)と大隅国と日向国(現在の宮崎県)との3か国に分割された。

(※日向国が3か国に分割された後も、宮崎県域は日向国として同じ名称が残されたので、間違いを起こし易くなった。例えば、日向神話と言えば宮崎県域だけの出来事のように思われているが、713年以前の「日向国」は鹿児島県域をも含んでいることを忘れてはならない。私はその昔の日向国を古日向と呼ぶことにしている。この古日向はまた私見の「投馬国」でもあった。)

唐の律令制を取り入れて中央集権を目指す大和王権にとって、支配領域の大きな地方豪族は目の上のたん瘤であり、分割してその勢力を奪ったのだが、古日向を3分割したことは、まさにその政策の帰結であった。

【薩摩ヒメ(クメ・ハヅ)・衣君の没落】

薩摩半島側で、700年に国境調査団である「覓国使」を脅迫した薩摩ヒメと衣(頴娃)君のその後は702年の次の記事でおぼろげながら了解される。

<薩摩・多禰、化を隔て、命に逆らう。ここにおいて兵を発し、征討し、ついに戸を挍(はか)り、吏を置く。>(702年8月1日条)

これによると、大和王権は征討軍を派遣し、薩摩・多禰の両国を帰順させている。そして戸数や住民の把握を行い、官吏を常駐させたのである。

この過程で、薩摩のヒメも衣君も殺害されたか、捕虜となったかして支配者の地位を失った。そう考えるのが順当だろう。

いずれにしても、薩摩国の建国は薩摩半島の大小多くの首長を廃絶に追い込んだのである。

そしてさらに、文武天皇の次の元明天皇の2年(709年)になり、その6月の記事の中に天皇の詔勅があったとして、次のような記事がある。

<大宰率(帥)以下、品の官に至るまで、事力(耕作人)を半減す。ただし、薩摩・多禰の両国の国司及び国師の僧たちは、減ずるの例にあらず。>

これは大宰府の役人の「職田」に関する勅令で、耕作人の人数を半分に減らせ、というのである。ところが薩摩と多禰の国司及び国僧に与えられた「職田」の耕作農民については、人数を減らさなくてよいと但し書きが付いている。

この記事から見えるのは、702年に薩摩・多禰両国が令制国として建国されてから少なくとも7年後には、国司と僧侶が派遣されていたことである。薩摩国では建国当時すでに「柵」すなわち「要塞」が築かれており、現地隼人への対応は万全であった。

【肝衝難波のその後】

『続日本紀』文武天皇4(700)年6月にはじめて登場してから、その後は杳として存在が知られなくなった難波のその後はどうなったであろうか。

薩摩半島の薩摩ヒメ(クメ・ハヅ)や衣(頴娃)君たちとともに難波が「覓国使」刑部真木らへの脅迫事件を起こし、筑紫総領(のちの大宰府)によって処罰されたさいに、被殺あるいは捕虜となったとすれば、事は簡単である。当然その後の登場はないだろう。

薩摩国が700年のわずか2年後に建国されたことから見て、薩摩半島側の薩摩ヒメたち及び衣君については、700年の処罰の時点で支配者から引きずり降ろされた可能性が高いが、私は大隅の首長・難波は700年から702年の時期、おそらく無事であったと思う。

というのは大隅国の建国は713年の4月であり、もし難波が薩摩ヒメたちと同じように捕殺または廃絶されていたとしたら、建国の時期はもっと早かっただろうからである。多分、薩摩国建国とさほど年を経ずして日向国から分立していたはずで、704、5年には建国を見ていておかしくないだろう。

702年の薩摩国建国前に大和王権から「征討軍」を派遣され、主だった首長層が殺されたり、捕虜となるという悲惨な状況を目の当たりにし、また聞き及んでいたら、大隅側の首長層はより一層抵抗の構えを見せるはずである。大隅国の建国が10年ほども遅れた理由はそれだろう。

それだけ大隅側の抵抗は大きかったというべきで、その中心にいたのが難波その人であったと思われる。

しかし大隅側にも大和王権に恭順する首長が現れたのである。その人物は「日向隼人・曽君細麻呂(そのきみほそまろ)」であった。細麻呂が登場するのは次の記事である。

<(元明天皇3年正月)29日、日向隼人・曽君細麻呂は荒俗を教喩し、聖化に馴服せしむ。(よって)外従五位下を授く。>

元明天皇は文武天皇の母だが、天皇の死去(25歳)を受けて皇位に就いた女帝である。この天皇の3年目(709年)の10月26日に「薩摩隼人の郡司ら188名が入朝し、500の騎兵の居並ぶ中、整列した」という記事が見え、この薩摩隼人たちは翌年(710年)の正月の祝賀の儀に、東北からの蝦夷とともに参列している。(※東北の蝦夷も709年に大規模な征討を受けて帰順している。)

彼らは日本全土が大和王権の中央集権政策により、着々とその勢力下に統合しつつあることを内外に知らしめるセレモニーに参加したわけである。参加したというより「参加させられた」というべきだろう。(※新しく造営された平城京への遷都が行われたのは、このわずか1か月半後の3月10日であった。)

ここに集った隼人は「薩摩隼人」であったはずであるが、翌年の上掲の「元明天皇3年正月29日の記事」にょると、意外や意外、何と「日向隼人・曽君細麻呂」という「日向隼人」がいるではないか。

一体どういうことか?

713(和銅6)年4月の大隅国建国以降の「日向」は今日の宮崎県であるが、それより前の日向は大隅半島側と宮崎県を併せた地域である。

この日向隼人・曽君細麻呂は「曽君」であるから、今日の霧島市の大半を占める国分と大隅半島部の現在の曽於市・志布志市までがその勢力範囲で、その南側の大隅半島の大部を支配下に置いていたのが難波であった。

記事にあるように、曽君細麻呂は「荒俗(王化に属さない民)を教喩(おしえさと)して、聖化(大和王権化)に馴服(ジュンプク=帰順)せしめた」ために律令制下の位階をもらったのであるが、この馴服させた隼人たちの範囲は自分の支配下の「曾」(のちの曽於郡)だけであったと思われる。

もし仮に曽君細麻呂が大隅半島中南部の難波の支配領域の隼人たちまでをも「馴服(帰順)」させていたのであれば、その時点で大隅国建国となってもおかしくない。

この後、元明天皇6(713=和銅6年)年4月3日付の記事、すなわち「肝杯・曾於・大隅・姶羅の4郡による大隅国分立」に至るまでの大隅半島の混乱については、うかがい知れないのだが、相当な争乱があったであろうことは疑いえないだろう。

その極め付けが、次の記事に現れている。

<(元明天皇6年7月5日)、天皇は次のように詔を出した。「勲級を授けるのは、功績があるからである。今、隼賊(シュンゾク)を討った将軍ならびに士卒等、戦陣に功ある者1280余人に対し、その功労の大小に従って勲を授けるべし」と。>

「隼賊(シュンゾク)」とは大隅国建国に反逆した肝衝難波を含む大隅の首長層及び隼人たちのことである。王朝に反逆するのは悉く「賊徒」であった。

この戦闘の時期は、当然大隅国建国の713年4月より以前でなければならないが、征討軍の将軍も出発した時期も戦闘期間の記事もないので不明とする他ない。ただ、征討軍の規模が上記の史料のように受勲した将軍兵士の数が1280名余とあるので、最低でもその数以上、おそらく2倍は下らないだろう。

この受勲した将軍兵士は大和から派遣された者たちで、大隅の現地では、先に帰順した薩摩隼人側からも徴兵されたはずであるから、実際には万を越える人員が王府軍として戦ったと思われる。その中に大隅側でありながら曽君細麻呂の指揮する曾於地方の隼人も加わった可能性が高い。

【「国司塚」の謎】

大隅建国を見る直前の712年(和銅5年)内に、大隅半島の難波の支配領域は大和王府軍の征討を受け、また薩摩国の隼人及び曾君細麻呂配下の隼人たちの加勢もあり、大隅の雄・肝衝難波も終焉を迎えたと思われる。(※この戦闘で功績を上げた将軍兵士にはそれぞれに勲章が与えられたことが、上記713年7月5日の史料に見えている。)

鹿屋市永野田町に不思議な言い伝えの「国司塚」というのがある。

この国司塚について、地元では次のように言われている。

「大隅国の初代国司である陽候史麻呂(やこのふひと・まろ)が広い大隅半島部を巡見する時、あまりに広いので鹿屋市の中心部に国司分館が置かれた。

ある年の巡見で陽候史麻呂の騎馬による一行が、鹿屋市の中心部の国司分館を出てから現地の隼人たちに襲われた。麻呂たち一行は這う這うの体で逃れたが、永野田の「国司山」の麓の水場まで来て息絶えてしまった。

そこが国司塚のある場所で、「国司塚」という名は亡くなったのが国司・陽候史麻呂だからそう言われている。

この国司の子孫だろうと言われ、塚の近くに居住する永田家が先祖代々この墓の祭りを行ってきた。」

この内容と同じものが国司塚の説明版に書かれている(鹿屋市教育委員会による設置)。


国司塚の全景。「国司塚」の石碑は昭和36年に、子孫で当時鹿屋市長であった永田良吉翁が建てている。また、同じ年に鹿屋市の中心部に近いちょっとした小山(今はない)に「国司城」があったとして、同じように石碑の「国司城址」を建立している。

永田良吉翁(1886年~1971年)は若くして大姶良村長となり、その後県議から衆議院議員になって活躍した。「請願代議士」とか「ヒコーキ代議士」とか言われ、生涯に何度となく破産したことでも有名で、政治に「権力者としての金儲け」観を全く持ち込まなかった清廉な代議士であった。

この「国司の墓」について、永田翁も「わが先祖が国司どんであれば、気張(頑張)らなければならない」と自分に言い聞かせた面もあったようだが、実は永田良吉翁が鹿屋市長引退後の昭和42年刊行の『鹿屋市史上巻』の646ページ、「第5章 鹿屋地方に残る数々の遺跡」の冒頭に「国司山」というタイトルで、大略次のように書かれている(カッコ内は私注である)。

<大隅初代国司の陽候史麻呂は姶良郡清水の館にいたが、肝属地方の年貢の納入成績が悪いので・・・(中略)、現在の鹿屋駅の上に居城(国司館の分館)を構えて統治していたが、大隅地方巡見の際にここで隼人に襲われた。追ってから逃れて名貫川を経て永野田に来た時に、ついに息絶えた。首級は部下たちの手によってここ国司塚に葬られた。>(同書646ページ)

ここまでは、国司塚の教育委員会の説明版とほぼ同じである。つまり初代大隅国司・陽候史麻呂が埋葬された場所だというのである。

ところが、647ページから648ページには、『続日本紀』養老4年(720年)2月29日の記事「隼人が大隅国守・陽候史麻呂を殺す」からの一連の隼人征伐の記事を下敷きにして、

<養老4年(720年)にもまた大乱が起こった。この反乱は(鹿屋のとは違う)大隅国北部の隼人(によるもの)であったと推察されるが、朝廷では(同年)3月、中納言大伴宿祢旅人を征隼人持節大将軍(中略)として、征途に就かせた。(中略)翌養老5年(721年)7月に至ってようやく(終戦となり)、斬首獲虜あわせて1400人を数えた。
 (中略)
これを見ると(鹿屋のとは違う)北方の隼人がまたも大乱を起こしたというのであるから、永田家の伝承のように国司が鹿屋にいることを知って(北方から)追って来たのかもしれない。余程の激戦であったらしく、養老4年2月から始まり、翌5年7月に終わっているから、1年半も戦乱が続いたことになる。>

としている。

この養老4年の記事が示す戦乱こそ、続日本紀記すところの養老4年(720年)から翌5年(721年)まで続いた「隼人の叛乱」で、その時に初代国司の陽候史麻呂が殺害された事件に端を発している。

鹿屋市史では「永野田の国司塚は、鹿屋に巡見に来た陽候史麻呂を鹿屋の隼人が襲撃し、追われた陽候史麻呂がここまで逃れてきてついに命を落とした場所であり、ここに埋葬されたから国司塚という」との見解を出しながら、同時に「北方の隼人、つまり大隅国府の置かれた国分方面の隼人が反乱を起こし、それが1年半も続いた」とも論じている。

それでは一体全体、どっちの隼人の叛乱で初代国司・陽候史麻呂が死んだのか、分からないことになる。

それとも鹿屋で起きた最初の隼人の襲撃で陽候史麻呂は死んでおらず、国府へ戻ったのだが、時を経て今度は国府の地元の隼人が反乱を起こした。そのため陽候史麻呂は南へ、つまり鹿屋方面に落ち延びたのだが、残念ながら鹿屋の隼人による襲撃を受け、今度こそ絶命した。そして遺体を「国司塚」に埋葬したーーというのであろうか?

『続日本紀』の養老4年2月29日に書かれた記事は、大宰府からの急報であったわけだが、当時の情報伝達にかかる日数からすれば、おおむねこの720年の2月29日の一か月前かそれくらいの時に、国分にある国衙において陽候史麻呂が殺害されたのは明らかなのである。

国分で言われているのは、720年正月の最初の「仏教会」に陽候史麻呂が伺候した際に襲われたというものであるが、的を射ているように思う。そうなると、陽候史麻呂が鹿屋市永野田の「国司山」の麓で絶命し、その傍らの「国司塚」に埋葬されたなどということは全くあり得ないことになる。

それでは永野田の「国司塚」とは誰の墓なのか・・・、次回に続く。













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