鴨着く島

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続・肝衝難波(『続日本紀』散策④)

2021-11-30 14:52:55 | 『続日本紀』散策
【「国司塚」の被葬者は誰か?】

鹿屋市永野田町にある「国司塚」は地元の伝承では「養老4年に隼人に殺害された大隅初代国司・陽候史麻呂(やこのふひと・まろ)」の墓ということになっている。

ところが直前のブログ「肝衝難波」で書いたように、陽候史麻呂が隼人に襲われて殺害されたのは国衙のある霧島市国分であった。

仮にもし、国分では殺害されずに、うまく逃げ延び、ここ鹿屋市永野田町にまでやって来てから死んだとしよう。

すなわち、大隅国司・陽候史麻呂が隼人によって殺害されたのは『続日本紀』の養老4(720)年2月29日の記事で明らかであるが、その国司が実は国分では殺されず、鹿屋の永野田まで逃れて来て殺害され、その遺体か首級かは分からぬが、とにかくそれを埋葬した場所が「国司塚」であるとしよう。

この隼人の叛乱は結局1年半後に決着がつき、大和王権側の勝利に終わった。

政府軍は勝者であり、隼人との戦いの原因となったのは陽候史麻呂が殺害されたことであった。

そうなると陽候史麻呂の扱いは、「大和王朝に楯突き、反逆を起こした隼賊(シュンゾク)の犠牲になってしまった大隅国司」となり、慰霊され、称揚されてしかるべき存在になろう。

ならば大和王権は筑紫総領(のちの大宰府)に命じて、陽候史麻呂が殺害され埋葬された鹿屋市永野田に筑紫総領から吏員を派遣して墓を掘り起こし、陽候史麻呂の遺骨を収容して筑紫総領経由で大和王権の下へ帰還させただろう。

奈良時代には「骨送使」という人員がいて、王権から派遣された大宰府の管理職や各国の国司クラスの者が現地で亡くなった場合に、荼毘に付した後の遺骨を都へ届ける制度があったのである。

もし「国司塚」に埋葬されたのが大隅国司・陽候史麻呂であるのならば、当然そのような扱いを受けなくてなならないから、養老5年に隼人の叛乱が終結を見たあと、さほど時を置かずに王権側の吏員(大宰府職員)が派遣され、墓を掘り起こして採骨して都へ運んでいったはずである。

とすればその時点で現地において慰霊の祭りをする必要はなくなる。百歩譲って慰霊祭が挙行され続けたにしてもせいぜい50年が限度だろう。

それを永田家の伝承によると1300年余り継続して来たというのであるが、「勝てば官軍」のほうに属する大隅国司の「御廟」であるのならば、もっと立派な神社のようなものが建てられていておかしくないではないか。なぜ次のように、ひっそりとした祭られ方をしなければならないのだろうか?

【「国司塚」の祭礼】

私は6,7年前に一度だけ、永田家の当代当主である永田良文さんにお願いして、旧10月の二の丑の日に行われる「国守祭」に参列させていただいたことがある。

その時に頂いたのが神主を勤めた年貫神社宮司から「雑祭記帳」というタイトルの「国守祭の事」を印刷した物であった。

それによると、「皇室の祭式に似たるにより、斎戒沐浴、最も厳粛に執行の事。」という注意書きがある。さらにこの「国守祭」は祭典終了まで「黙行・黙読のこと」とある。この黙行・黙読については、かの永田良吉翁が衆議院議員として昭和天皇の即位式(御大典)に参列した時、そう聞かされ、「我が家の国守祭と同じだ」と感激したそうである。

国守鎮座地(国司塚)に行き、礼拝の後行うのが、「御幣替え」である。「御幣」とは和紙を縒って作る「御霊代」のことで、毎年この祭礼の時に新しく立て替える。


後ろの叢生した竹がいわば「神社」で、その前に和紙で作った御幣を立て並べてお祭りをする。

御幣には手前の「金幣」と後ろの「日本(ひのもと)幣」の2種類があり、金幣は16本、日本幣は36本、合計54本の御幣を「御霊代」として立て、その後、小祓い、大祓い、ののち、「祝詞」をほんの小声で奏上していた。

神主によると、金幣に降ろされる御霊は名前が分かっている御霊で、日本幣は名前が分からない御霊とのことであった。

言い伝えでは、「金幣」の16本は陽候史麻呂を護衛した騎馬隊の人数であり、「日本(ひのもと=霊のもと)幣」の36本はそれ以外の部下たちの人数だそうである。

もっともらしい言い伝えだが、なにしろ陽候史麻呂はここに来て死んではいないので、全くのこじつけというより他にない。

(※私見ではこの54本の御幣(御霊代)は肝衝難波以下永田家が1300年余、子孫として祭っている代々である。新たな1本が加わって55本。これが難波から現在に至るまでの子孫の代数であろう。1300年を55代で割ると、24年余で、一代の年数としては妥当な数値である。)

石の祠も無いようなこんな簡略極まる慰霊の地が他にあるだろうか。しかも「勝てば官軍」側の被葬者の塚とは全く思われない。

もし永田家が官軍側の陽候史麻呂を祭る後裔だとしたら、この後の大隅国司(大宰府)が放っておかないだろう。しかるべき官吏(官職)に取り立て、少なくとも大隅郡や肝属郡の郡司クラスにはなったであろうが、そんな顕職を担ったという伝承はない。

また塚自体も、もっと立派な神社様式の物になったであろう(※前の道路と変わらない高さの5アールほどの広さの広場があり、その奥に叢生した竹があるが、そこが埋葬地らしい。何の祠も無い殺風景な、見方によっては「清楚な」空間があるばかりだ。)

この「国司塚」が大隅初代国司・陽候史麻呂の墓地であり、それを祭って来た永田家が陽候史麻呂の子孫であるとは、以上の理由からまず考えられない。

【「国司塚」は肝衝難波の墓】

官軍側のオエライさんの墓でなければ誰の墓であろうか?

公的には何も顕彰されず、死後こんなにひっそりと祭られているのは、官軍側に属した人物ではないと考えるのが常識というものだろう

では誰だろうか?

それは大隅の豪族で、当時の大和王権に抵抗して殺害された肝衝難波としか考えられない。

ということは、これを1300年間も祭り続けている永田家も官軍側の子孫ではなく、敗れた大隅の首長「肝衝難波」の子孫とした方が筋が通る。

肝衝難波は大隅はじめ広く古日向を支配していた「投馬国」の直系であろう。具体的に言えば、大隅で生まれた神武天皇とアイラツヒメとの間の2皇子タギシミミとキスミミのうち、「東征」に参加せず、地元に残ったキスミミ(岐須美美)の子孫に違いない。

キスミミは「岐の王」すなわち「港の王」であり、兄のタギシミミが大和への東征を敢行した(西暦170年の頃)のちも大隅半島に残った。

その子孫が「肝衝氏」であり、難波はキスミミのおよそ500年後の子孫であった。そして難波の子孫「永田氏」が、非業の死を遂げた先祖の難波を現地で祭り続けているということになろう。

その祭り方が皇室の祭り方と似ているのは、かつて古日向人は南九州から大和に入り、そこで橿原王朝を開いたのだが、南九州時代に斎行した神祭りを大和に入ったのちも続けていたからだろう。神祭りの祭式は極めて保守的なのが普通である。

【キスミミとアツカヤと肝衝難波】

キスミミ(岐須美美)は上で述べたように、神武天皇とアイラツヒメとの間の2皇子(タギシミミ・キスミミ)のうち弟に当たり、タギシミミが東征に加わったのに対し、南九州(古日向)に残ったのだが、そもそもキスミミは古事記には書かれているのだが日本書紀には書かれていない。

この理由は、キスミミが肝衝難波の先祖だからだろう。大和朝廷に対する当時最大の反逆者・難波の先祖は書くに値しないのだ。抹殺されたと言っていい。

同様の理由で文字通り抹殺されたのが、他ならぬキスミミの兄のタギシミミである。

「東征」に参加したタギシミミは神武天皇亡きあとを継ぐのが順当だったのだが、大和生まれの腹違いの弟カムヌナカワミミに「神武天皇の諒闇に勝手なことをした」「継母に言い寄った」という理由で、殺害されるというストーリーになっている。

しかし「綏靖天皇紀」にはタギシミミは「年すでに長じており、朝機を経ていた」と書かれているのだ。つまり「腹違いの弟カムヌナカワミミよりかなり年上であり、弟がまだ小さいので天皇位(朝機)を経験していた」というのである。

私は神武天皇を古日向「投馬国王タギシミミ」その人であると考えるので、それは当然と言えば当然である。

しかし肝衝難波が、南九州から「東征」したタギシミミの弟キスミミの子孫だったら、同族として、本来、大和王朝に協力的でなければならないはずなのに、叛逆した。その年代は大隅建国時の争乱があった712年頃のことであったから、720年に編纂が完成した日本書紀では難波の先祖キスミミを書かなかった(抹消した)のだろう。

(※古事記がタギシミミとキスミミの両方を書いているのは、編纂者の太安万侶がカムヌナカワミミの兄のカムヤイミミの子孫だから。つまり、南九州に出自を持っているから書き落とせなかったのだろう。)

これと同じように南九州人を排除するストーリーを創作したのが、「景行天皇のクマソ親征」ではないかと思われる。

私は景行天皇の「親征」というのはなかったと思う(古事記では「ヤマトタケルのクマソ征伐」しか書かれていない)。

日本書紀では、景行天皇が南九州でクマソの兄弟(アツカヤ・サカヤ)を、アツカヤの娘を篭絡することによってうまく成敗するというストーリーなのだが、このアツカヤ・サカヤの「カヤ」を見れば、大隅半島の中心部の鹿屋を想起せざるをえない。

つまり、この二人のカヤは、大隅の支配者・肝衝難波をモデルにして景行天皇時代の「クマソ親征」として描いたものだろう。

このストーリーの創作は、やはり712年頃の大隅国建国時の肝衝難波による叛逆を受け、編纂途上の日本書紀(720年に完成)から大隅を出自とした人物群の抹消(キスミミ排除)及び改変(タギシミミ殺害)が目的だったのである。

(※尚、地元の伝承で「国司塚」は「女人禁制」的な祟りがある――というのだが、これは上記のクマソ豪族アツカヤが、娘イチフカヤの寝返りによって征伐されてしまったことと関係がありそうだ。)





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