鴨着く島

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「大山咋(オオヤマクイ)」と「三嶋溝咋」

2021-05-14 09:58:55 | 古日向の謎
先日のブログ「秦氏と隼人」で京都の下鴨神社の祭神であるカモタケツヌミは「南九州の曽の峰に天下り、大和葛城に定住し、その後、山城国方面に北上して木津川を経て鴨川に入り、さらに北上して現在の地(久我の山基)に至り、そこで祭られた、と書いた。

そして、のちに現在の太秦を含む桂川の左岸地帯を開発した「秦氏」と下鴨神社を司祭する鴨氏との婚姻があり、極めて近しい間柄になった。

そこで雄略天皇の時に畿内各地に散らばっていた秦氏一族を招集させる際に、隼人が活躍して18000余名の秦氏を集めるのに功があった(『新撰姓氏録』山城国・諸蕃)というその理由が分かったのであった。隼人は南九州人のことでもあるからだ。(※ただし、雄略天皇の頃、隼人呼称はなかったから、隼人という呼称を使ったのは編集時の遡及である。当時は別呼称だったはず。)

また南九州人を鴨族といい、朝鮮半島との水運を持っていたから、半島から渡来した秦氏の祖である「弓月君が引率する120県の人民」(応神紀)を運搬したがゆえに、すでにその時点でも南九州鴨族は秦氏とは知己の間柄であったことも、秦氏の捜索に功を奏したのだろう、とも述べた。

上掲の『姓氏録』の記事は、秦氏が雄略天皇に「調布を上納して宮廷の前にうずたかく山のように積んだため、激賞した天皇から太秦という姓を賜った」とあるので、彼らの多く住む土地も太秦(京都右京区)になったという地名譚にもつながっている。

ところで、その太秦の地に勢力を張った秦氏の氏神は太秦から桂川を西に渡ったところに聳える松尾山のふもとの「松尾大社」である。

半島から渡来した秦氏がどんな神を祭ったかと言えば、祭神は「大山咋(オオヤマクイ)」という神である。

この神の属性は「山の中に杭を打ちたてて境界を示し、山を守る」こと、というのが一般的な解釈であり、大社自身もそのように解釈しているようである。

その解釈のため「林業や酒造業」の守り神として崇敬を集めているとのことだが、林業はいいとして、酒造業の方は酒造りに欠かせない「酒樽」の原料はスギであり、酒屋の看板ともいえるのが「杉玉」だから、なるほど縁は十分にある。

しかし「山の中に杭を立てたら、それで山域が守られる」という点には疑問を感じる。杭くらいで境界が完全に守られるのだろうか。

「山を守る」なら、「山の神」すなわち「オオヤマツミ(大山津見=大山衹)」が由緒もあり、著名でもある。

そもそも「大山咋」の「咋」に杭の意味はないのだ。「咋」は音読みで「サク」、訓読みでは「くい」。この訓読みの「くい」が杭の訓読みと同じなので「杭」(立棒)が当てられてしまったに違いない。

「咋」の漢字の意味は、(1)大声で叫ぶ、騒ぐ (2)噛む、喰う であり、「杭」の意味はない。

ではこのうちどちらの意味を採るべきかというと(2)しかない。この時「大山咋」は「大山を喰う」と解釈される。

「大山を喰う」とは「山を開削する」、つまり「山を削って石材などを切り出す」ということだと思うのである。

秦氏が太秦周辺(京都市右京区)を開拓する際に最も必要な事業は「水田を拓き、毎年安定的な収穫を得るための工事」であったはずだ。進んだ鉄器や技術があっても、田への導水及び排水の利に失敗したら水田は機能しないのである。

導水路や排水路は山田では自然の傾斜により難なく設備できるが、傾斜の緩い沖積平野部ではかなり精密な水路が要求される。そこに必要なのが水路に敷く石材だったはずだ。

そのような石材は山地に求めるのだが、その際当然、山を切り裂くことになる。そのような行為は山の神に許しを求めなければならないと当時の人々は思ったに違いない。それでこその「大山咋神」であったと考える。

この「咋」を使った例が、神武天皇の時代に描かれている。

それは「三嶋溝咋」(ミシマノミゾクイ)という人物である(日本書紀ではミシマノミゾクイミミと「ミミ」が付く)。

摂津(大阪府北部)の三嶋というところに勢力をもつ豪族で、この人物の孫娘・ヒメタタライスケヨリヒメは神武天皇の二番目の后になっている(最初の后は南九州のアイラツヒメ)。

この「三嶋溝咋」の意味は、「三嶋地方で用水路を開発する人物」ということである。摂津三島は淀川の右岸、現在の高槻市を中心とする沖積平野の真っただ中にある。

この地方は淀川の氾濫原で、低湿地であり、導水よりも排水に気を付けなければ水田として大々的には拓けない場所である。その難しい大規模工事を行っていたのが「三嶋溝咋」であった。

現在でも三島の地名は残り、「三島鴨神社」や「溝咋神社」(どちらも式内社)が鎮座している。「溝咋神社」は三嶋溝咋一族を祭るのだが、もう一社の方には「鴨」が付くことに注目したい。ここも鴨族の蝟集する所だったことを示している。

また仁徳天皇の時に、この地方で「秦人を使役して茨田(まむた)堤、また茨田三宅を作り、またワニの池・よさみの池を作り、また難波の堀江を掘りて海に通わし……」と古事記にあるように、河川改修、貯水池建設を行い、難波(淀川下流)では堀を掘削して海へ排水する工事が行われたという。

ここで「秦人を使役し」とあるが、三嶋溝咋のような人物を指導者として秦氏の得意な土木工事を行ったのだろう。この三嶋溝咋も鴨族の豪族であったと思われる。山城国で秦氏と鴨族(南九州人)が懇意の間柄であったように、ここ摂津三島でもそれは維持されていたとしてよいのではないか。

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