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肝付氏初代と2代の謎

2021-05-31 10:55:26 | 鹿児島古代史の謎
先週の月曜日、歴史の仲間と食事をした際に、地元の肝付氏の話になった際、「初代の兼俊と二代目の兼経との間が150年ばかり離れているのはどうしてか?」という疑問が出された。これは肝付氏の歴史を振り返る際に誰しもが逢着する疑問であり、悩ましい問題である。

というのは、初代の肝付兼俊は長元9年(1036年)に肝属郡の弁済使になり、高山に赴任してから肝付氏を名乗った。そして二代目の兼経は「島津忠久下向の頃、城主」と系図にあるからなのだ(『高山郷土誌』213ページ)。

兼俊と兼経は系図上では親子関係でありながら、年代に150年もの開きがあるというのは有り得ない話である。

同席した高山のF氏は、「郷土史家のT先生は、『その間は宮崎の串間に本所があり、そこから肝付方面をも兼領していたのだろう』と言っていますよ」とコメントされたが、私にはどうも合点がいかない。

というのは、串間郷より肝属郡の方がはるかに規模が大きいし、150年も串間から統治していたのなら串間郷土誌などにも当然何かの記録があるはず。どちらにも記録の片りんさえないというのは有り得ない、と述べてみたのだが、どうにも腑に落ちない。

そこで調べてみたのだが、結論として次のようになった。

初代の兼俊の父は伴兼貞と言い、都城の梅北を中心に開発領主となり墾田を万寿3年(1026年)に宇治関白・頼通に寄進した平季基(たいらのすえもと)の娘を嫁にした(1030年頃)のだが、その際に伴姓を捨てて平姓になった。というのも伴姓はそれなりに由緒ある姓だが、応天門の変で先祖の大納言・伴善男が失脚し、流罪になったことがあった。

また伴氏(本姓は大伴氏)は代々武門の家筋だが、11世紀に入ると源平の武家勢力が盛んになり、源平の祖はそれぞれ天皇家に繋がっていた。つまり同じ武門と言いながら、伴氏は臣下であり、源平は皇族の一門であった。となれば兼貞は伴姓を捨てて平姓に連なるのに躊躇はなかっただろう。

したがって息子の兼俊も肝属郡の弁済使になって肝属郡に下向する際には「平兼俊」だったはずだ。そして代々弁済使という荘官を務めている間、平姓で通したに違いない。

初めて肝付氏を名乗ったとされている兼俊は実は平兼俊であり、その後も代々「平何某」を名乗っていた。しかし元暦2年(1186年)に平家が壇ノ浦の戦いで滅びると、幕府を開いた頼朝による「平家追討命令」は落人の数多いるとされた九州に及び、九州は大きな混乱と困惑に陥った。

特に大隅に多かったという平家の落人と何らかの関わりを持てばそれだけで「お家没落」の憂き目を見る可能性があった。肝付氏は特に安徳天皇を迎え入れた(保護した)という伝承があり(『落日後の平家』永井彦熊著)、鎌倉幕府の嫌疑は強かったに違いない。

その上「平姓」であればなおさら同族とみられてしまうだろう。そこで急遽、「島津忠久下向の頃、城主」(上掲『高山郷土誌』)だった兼経を平姓から「肝付姓」にして「肝付兼経」とし、しかも系図上は「二代目」として、初代の兼俊につなげた。その上で初代兼俊の代から「肝付姓」が始まったと系図に書き込んだのだろう。

すなわち兼俊から兼経までの間150年間には、代にして5代はあったと思うが、代々「平何某」という領主名だったのだが、それらをすべて抹消したのだ。これは「欠史八代」と言われ神武天皇から崇神天皇の間の8代の天皇は「初代神武天皇を古く見せるために入れ込んだ架空の天皇である」というのとは真逆のやり方である。

以上はかねてから考えていた事どもなのだが、今度、肝属郡でも肝付町の東隣の吾平町の郷土誌をめくっていてある記録に目が止まり、上の案件の正しさが証明できたように思う。

『吾平町誌』の上巻433ページには「得丸氏古系図」についての編纂者の考察があり、3つの点に纏めているのだが、それによると

(1)平季基は三俣院を領し、梅北の益貫にいたが、伴兼貞が鵜戸権現に参詣した時に兼貞は季基の娘を貰い、三俣を譲った。
(2)平季基の弟・良宗の姶良庄開発は、万寿3年(1026年)以降である。
(3)『肝属郡地誌備考』に「姶良郡の姶良平大夫良門、元暦・文治の頃」に領主だった。

である。このうち、(1)はやや伝説めくが、兼貞が平季基の娘を嫁にしたことは史実であり、(2)は兄の平季基が梅北を関白家に寄進した時代より後に、弟の良宗(平判官良宗)が大隅の姶良庄に入ったことも間違いない(事実、良宗が吾平に八幡宮を建立し、奉納したという鏡に「平判官寄進。長久4年(1043年)」の銘がある)。

問題は、というか、刮目に値するのが(3)の「姶良平大夫・良門(よしかど)は元暦・文治年間の領主だった」という記述である。

良門は「得丸氏古系図」によると、良宗の孫にあたり、父は良高。この系図からすれば吾平に入部した良宗の時代は万寿から長久の1030年代から1040年代である。ところが孫の良門の時代は元暦の頃、つまり1185年、1186年になるというのである。

そうすると祖父と孫の年代の差が150年にもなり、これは肝付氏の兼俊と兼経の150年差と同じようにあり得ない話になる。

系図には良宗の子の良高の脇に、「得丸名を相伝した」とあるが、「得丸を号す」という記事はない。また良高の子とされ「元暦の頃に領主だった」良門の脇にも「得丸を号す」という書き込みはない。

平姓からいつ得丸氏になったのかの記事が良門にもないことは、得丸氏になったのがそのあと、つまり良門が領主を務めていた元暦の頃までは実は「平姓」であり、そのあと1年後に平家が壇ノ浦の戦いで滅亡し、「天下人」だった平家が朝敵として鎌倉幕府の追討の対象になってから、訴追の対象にならぬよう慌てて「平姓」を捨てたことを物語っていよう。

最初に吾平に入部して姶良庄を拓いて鹿児島神宮(八幡宮)に寄進し、荘官に就任したのは間違いなく平良宗であったのは隠しようがないが、子ども以下の世代では「平姓」を隠し、3代目から元暦の前までの子孫の数代(4代はあったと思われる)は系図の上では抹消したに違いない。


【閑話休題】

源平時代に「薩摩平氏」の活躍は周知のことだが、「大隅平氏」は聞いたことがない。もし平季基と季基の婿・伴兼貞及び季基の弟の良宗が武力に秀でていたか、武力に訴えることに執心していたら、早くに大隅から都城近傍にまたがる一大勢力が生まれており、島津氏の容喙を拒んでいたかもしれない。


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