140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

ルサンチマンの哲学

2013-03-24 00:05:05 | ニーチェ
永井均「ルサンチマンの哲学」という本を読んだ。冒頭で以下のように定義されている。
「ルサンチマンとは、現実の行為によって反撃することが不可能なとき、
想像上の復讐によってその埋め合わせをしようとする者が心に抱き続ける
反復感情のこと」

そしてニーチェは以下のようなことを問題にしていたのだという。
「ニーチェの問題は、ルサンチマンが創造する力となって価値を生み出すように
なったとき、道徳上の奴隷一揆が始まるということであり、そして実際にそうであった、
ということなのです。つまり我々はみなこの成功した一揆で作られた体制の中にいて、
それを自明として生きている、ということがポイントなのです」

ルサンチマンによる価値の変造については次のような話を持ち出している。
「クラスにいじめられっ子がいたとする。現実を変えることができないと悟ったとき、
彼が内省力の強い子であれば、状況の意味を自分の中で作り変えるくふうをするはずである。
弱者は強者との闘いにおいて、ゲームのルールを秘かに変更するのである。
彼が絶対に負けないゲームは『内面の法廷』を最終審とする道徳ゲームである。
おそらく彼は、道徳的に真に『よい子』になれるであろう。
誰も見ていない場所で、誰にも気づかれない状況で、彼はいじめの首謀者やクラス全員のために
献身的に尽くすかもしれない。心の奥の暗い部屋の中で秘かな復讐の快楽に溺れながら、
愛と正義に満ちた行動を繰り返すこの子の『善意』に病的なものを発見できる人なら、
ニーチェの洞察に敬意を抱くことができよう。だが・・・・・・」
「さてしかし、彼の精神が不健康だとしても、誰がその不健康さを責めることが
できるだろうか。それは、他に為す術がなかった者の、やむをえざる不健康さだからである」

そうするといったいどのようなことが起きているのだろうか?
彼の考えはおそらく以下の著述に示されている。
「現代社会はあらゆる差別を血眼になって告発して行くが、能力差別にだけは手をつけることが
できない。能力における強者(いわゆる有能な人)の支配と君臨を、我々はいわば
『自然の正義』として承認しているのである。人類社会はこの正義をおそらくは永遠に
乗り越えることができないだろう」

確かに一部の恵まれた人々が手にすることができる社会的に高い地位であるとか高額な報酬が、
機会が均等に与えられた公正な競争の結果として与えられているとか
本人の弛まぬ努力の結果として与えられているとは思えない。
能力とは生得的なものだ。
そのことを告発するためには自分の能力が劣るということを認める必要がある。
誰もそんなことをして恥を晒したくはない。能力差に絶望するなんてこともしたくはない。
そうすると能力はないけど清らかな心を持っているのだと自分を慰めるしかない。
清らかな心は努力によって手に入れることができる。
あるいはそのふりをすることができる。

一方で強者がいつまでも支配と君臨を続けることもできない。
強者が次世代の強者に取って代わられ弱者となることもあるだろうし
あるいは強者のまま寿命を全うするのかもしれないが、その時に支配は終わる。
それ故に、そんなことを妬んでも仕方がない。
私たちは道徳による価値転倒をしなければ生きていけないのだろうか?
いじめられっ子が不健康にしか生きられないのであればそうだということになる。
今のところ私は否定する材料を持っていない。
それを否定しようとするところに私の無能力さが現れているのだが
それを無視するとしたら?

ニーチェの告発は「ルサンチマンに駆られた人々ではなく、
もはや存在しないルサンチマンをでっち上げる人々」に向けられたものだという。
「今日われわれの現実世界を支配しているルールの中で、十分に闘うことができ、
日々有効な戦果を手にしているにもかかわらず、さらに内面のモラルの法廷を作り上げ、
その中でまたもう一度勝利を手にしようとする人々」
そのような「二重の勝利を味わう人々」によって
「道徳的内面こそが最も不潔な、いわば最も不道徳的なもの」になるのだという。
「私の嘔吐が始まるのはここだ」とは
そういうことであるらしい。

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