140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

源氏物語(0)

2013-08-03 23:16:47 | 源氏物語
村上春樹さんは日本文学あるいは文壇を破壊しようとしたのだろうかと思うことがある。
彼の初期の作品には「カラマーゾフの兄弟」、「グレート・ギャツビー」、「純粋理性批判」などが
引用されていた。ロシア文学、アメリカ文学、あるいはドイツ哲学に価値は認めているが、
日本文学など気にも留めていないといった感じがする。
一回だけ夏目漱石の小説が引用されていたと思う。
ほとんど唯一の例外として

「オマエみたいな奴に芥川や太宰の苦悩がわかるはずがない」とか、
「お前如きに漱石が読みこなせるわけがない」と仰る方もいると思うが、その通りだ。
しかし「羅生門(藪の中)は映画化できたけど「白痴」は失敗してしまった。
それだけ難しい問題を扱っているのかもしれない。
一方で、神とか悪魔とか、そういうことは、実は深い悩みにはならないんじゃないかと、
哲学の本なんか読んでいると、そんなふうに感じることもある。
だが「語りえぬもの」を示すことで有頂天になっている現代日本の哲学者にしても、
オリジナリティに欠けるので引用するものは何もないのかもしれない。

文壇は毎年芥川賞作家を生産しているのだが、その名を長く記憶している者は少ない。
大江健三郎さんしか生き残りがいない。死屍累累・・・ああ・・・
素人にはわからない何か新しいものを受賞者や選考委員は見出しているのだろうかと、
そんなふうに捉えてみるのもよいが、それはあまりにお人好しというものだろう。

きっと岩手県をイーハトーブと呼ぶような人は天才に違いないので春樹さんも及ばない。
それ自身で輝いている恒星に危害を加えることはできない。
そういう芥川賞的でないものがもっとたくさんあるのではないだろうか?
別に千年変わらぬ日本人の心とか日本の良さといったものを求めているわけではない。
サッカーのA代表の試合で君が代が流れるのを聞く度に、ひどい音楽だと思ったりする。
掻き立てられるナショナリズムもイマイチだ。

与謝野晶子訳を第11帖花散里まで読んだがよくわからなかった。
図書館に行くと瀬戸内寂聴訳の第二巻以降があったので第6帖末摘花から読んでみたが
現代風でわかりやすかった。
1878年生れの与謝野晶子と1922年生れの瀬戸内寂聴の50年の間にも言葉は変化している。
そうすると千年前の原文は私が読んだ現代語訳とは全然違うものなのだろう。
瀬戸内寂聴訳が読みやすいのは、おそらくは原文で省略されている部分を、
もっとも多いのはその主語を補っているからだと思う。
さすがに和歌は原文が記載されており、その下に現代語訳が記載されている。
その説明が妙に長くて嫌になってくる。
本来は歌に凝縮された意図を読み取るべきところなのだが、
あいにく私にはその能力がない。

そのようにして著者が意図したものとかけ離れているものかもしれないが
瀬戸内寂聴訳を最後まで読んだ。
おもしろいですよ。