かどくら邦良@高崎市議会議員 ブログ

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2014.10.6 松下圭一先生「政策型思考と政治」

2014-10-06 01:44:46 | 日記
1991年に出版された松下圭一法政大学名誉教授の「政策型思考と政治」。松下先生の本に触れたのは、この本が初めてでした。その後、松下先生の様々な本を読ませてもらい、政治的視野が広がりました。

社会を変えるために市民運動に軸足を置きながら、政策制度や議会にも真正面から向き合わないといけないことを認識させられたのは、松下先生の本のおかげです。

今、あらためて「政策型思考と政治」を少しずつ読み直していますが、相変わらず松下先生の切り開いた理論水準に、私達の現実政治が全く追い付いていないなと落ち込むばかりです。

しかし、人口減少社会を迎えた日本にあって、これを解決する道は、やはり自治・分権・政治への市民参画しかないと、この本を読みつつ思うわけです。

先生は「政策型思考と政治」の、あとがきの中でこう書いている。長くなるが引用する。

[ 政策型・制度型思考の自立を考えるには、どうしても、政策・制度の主体に<何>を設定するか、から出発せざるをえない。日本では、戦後もひろく、主体としては「国家」が、いわゆる階級国家論をふくめて、考えられていた。それゆえ、大衆社会つまり都市型社会の成立にともなう≪市民≫の定位という、基礎作業からはじめなければならなかった。これが一九六六年、『思想』六月号「市民的人間型の現代的可能性」(拙者『現代政治の条件』増補版、一九六九年・中央公論社所収)の課題となる。そのとき、≪市民≫の成立は、遠く欧米の物語ではなく、日本でも大衆社会ないし都市型社会への移行によって、すでに日本の現実となっていることを提示した。

 この政策型・制度型思考の定礎のなかから、結局のところ、都市型社会の成立という事態をふまえて、≪分節政治≫の構想となっていく。その時点で、制度型思考の再編をめざした、『市民自治の憲法理論』(一九七五年・岩波書店)を書いている。戦後もつづく「国家統治」という<観念崇拝>に、「市民自治」の<政策・制度>を対置していくのである。私の国家観念との別れは、この時点ではじまっている。
 ステートとしての国家は、近代化の権力として、近代・ヨーロッパという特定の時点・地域に成立する。その成立以来、絶対・無謬・包括という主権性が、君主主権・人民主権、あるいは国家主権の設定を問わず、たえずつきまとっていた。この国家観念は、その後ひろく日本をふくめて地球規模で、政治思考ないし政治神話・イデオロギーの中核観念となり、私たちの思考を呪縛してきた。
 この国家観念が、都市型社会への移行とあいまって、日本をふくめた先発国では、ようやく崩壊しはじめるのである。「分権型・国際化・文化化」が時代の課題となったからである。いわゆる「ボーダーレス」がこれである。政府としては、自治体、国際機構が自立して、自治体、国、国際機構という政府の三分化がおきる。
 当然、政治学ないし社会科学一般の理論(パラダイム)転換がひきおこされていく。政治はあらためて国家観念から解放され、自治体、国、国際機構という三政府レベルにおける、政策・制度の選択におきなおされる。

ここから、政治は、市民の≪組織・制御技術≫におきなおされ、この組織・制御をめぐる、政策・制度の習熟と、脱魔術化する。本書は、この意味で、政治の現代文法書となっているはずである。

その起点も、いわゆる「権力」ではなく、都市型社会の「市民生活」となる。ここから、さらに、市民良識・市民文化という、<生ける法>をふまえていく。この<生ける法>を、各政府レベルでいかに政策化・制度化するかが、私の思考方法となる。これが、シビル・ミニマム、ナショナル・ミニマム、インターナショナル・ミニマムの設定につらなる。]


松下先生のテーマは、いかにして近代の国家を超えるかが問題意識の根底にある。それは、国家の名のもと、戦争を遂行した世界各国、そして日本を、どのように超えていくかということであると思う。

「国民」を超えて「市民」を政治主体に据え、従来の近代国家を超えて、自治体、国、国際機構に分節政治を介入させ、進展する分権化、国際化、情報化のもと、いかに市民参画による民主主義を強化し、平和な世界をつくれるかが、私達に松下先生から課せられた大きな宿題であります。

自治の現場に県議会議員として係わって7年。陳情政治の埋没しがちな私に、原点に帰るように促す、ありがたい「古典」、それが松下先生の「政策型思考と政治」です。

昨日は、ソフトテニス高崎大会あいさつ、長寿会イベントあいさつ、吉井町あいさつまわり。