かどくら邦良@高崎市議会議員 ブログ

思いをブログに綴ります。

2014.10.3 平和の人、反戦の人、二人の死。

2014-10-03 01:20:36 | 日記
平和の人、土井たか子さんが9月20日に亡くなっていたという。土井さんは日本の憲政史上初の女性党首、そして衆議院議長だ。

土井さんと初めてお会いしたのは1987年の2月だったと思う。私が参加していた市民運動の代表であった作家の小田実さんを、東京都知事選に出馬させようという市民集会だった。
土井さんは社会党の委員長として、チョットきてチョットだけいて、小田さんに期待すると言って直ぐ帰ってしまった時だ。

あとで関係者に聞いた話だと、土井さんは友人の小田さんの都知事選出馬に、あまり乗り気ではなかった、まあ小田さんは知事にむいていないと思っていたらしい。

その後は、土井さんを囲む市民団体が主催する集会や、国会議員の秘書として会館や国会でお会いする機会が多々あった。

しかし、土井さんと突っ込んで話をすることはなかった。土井さんといえば「山が動いた。ダメなものはダメ。やるっきゃない。」など名言を残してきたが、土井さんの言葉で私の中で最も記憶に残っているのは、湾岸戦争、PKOを巡って社会党として国際協力のあり方が問われていた時に「護憲の岸辺に佇んでいるだけではいけない」と「護憲の人」土井たか子としては相当な厳しい決断を迫られつつあった。

しかし1991年4月の統一自治体議員選挙で社会党が大敗し、委員長を辞職した。

土井さんの言う社会党が「護憲の岸辺に佇んでいるだけではいけない」ということが、どのような社会党の外交・安保政策の転換として考えていたのかが、元気なうちに聞いてみたかったが叶わなかった。

土井さんのもとで社会党が政権政党に生まれ変わることができれば、どんな党が日本の政権についても解釈改憲で集団的自衛権を認める閣議決定も法改正もなかったのではないか。

土井さんは引退後も憲法のことを心配していたという。頑張り続けた土井さんに感謝するとともに残念でならない。

もう1人は私の友人で反戦の人、八木隆次君の死だ。

八木君は3年前に白血病に侵され、病と闘い続けたが49歳で9月25日に亡くなった。

八木君との出会いは1991年2月の東京渋谷での湾岸戦争に反対するデモの中だった。

八木君は当時大学院生だったと思うが、その後、土井たか子を支える会から市民秘書として土井さんの秘書となった。

そして社会党本部職員、村山富市元総理の官邸詰めの秘書など歴任し、2006年くらいから平和フォーラムの専従スタッフとして活躍してきた。

湾岸戦争、イラク戦争、そして脱原発デモや集会など、私の所属していた市民運動団体にも参加してもらい、共にデモや集会をつくってきた仲間だった。

私が群馬県議になって東京を離れてからこの8年間は、東京での大きなデモがある時に出会う程度になってしまった。

特に八木君が発病してからは、八木君の元気のない顔を見るのがイヤで、お見舞いに行くことを避けていた。わずかにフェイスブックで繋がっていた程度だった。

八木君が危篤だと24日に連絡が入った時も足が動かなかった。ずっと八木君はお見舞いに来てほしくないと思っていたから。

八木君は平和の人ではなく、断固として反戦の人だったと思う。八木君は権力に対して究極のところでは徹底的に反逆する人だったと思う。

平和の人、土井さんは権力を抑制的に制御すべきという平和主義者。八木君は反権力の反戦主義者だった。

反戦の人、八木君は平和の人、土井さんに導かれて、この世を去ってしまったのか。本当に淋しい二人の死であった。

昨日は県議会、特別委員会、労組後援会会議。