本日の解散をもって金田誠一衆議院議員が衆議院議員の仕事を終えることとなりました。
私のブログで都度都度、金田議員について報告させていただいてきましたが、政権交代を前にして国会を去ることは、無念の思いもあると思います。
しかし、全力で走ってきた国会議員としての活動の16年は素晴らしいものだと思います。
1947年生まれ。高校卒業後、函館市役所勤務。若い時から自治労函館市職労の労働組合活動に参加し、本人曰くユニークな労働組合活動を展開。
函館市に多分日本で最も早い時期に臨時職員のみなさんの組織化、ゴミの収集等の公共委託サービス事業の組織化等、無権利、厳しい労働環境に置かれた非正規職員等の弱い立場、少数派の立場に立った労働運動づくりに取り組んできました。
31歳で函館市議会議員に当選。4期連続当選し、1993年7月に衆議院議員に初当選。
1993年の衆議院議員選挙は細川連立政権が誕生した年で、新しい政治が始まるとの期待が膨らんだ時でもありました。
その一方で、衆議院議員の選挙制度を小選挙区制に変えるとの法案も出され、当時金田議員が属していた社会党は、細川連立政権を維持することと、小選挙区制に反対することの両立に苦しみ、党内論議は混迷しました。
社会党は連立維持を優先させ、苦渋の選択として小選挙区制賛成に踏み出したが、社会党内の反対派は激しく抵抗を続け、1994年1月、参議院での小選挙区制を含む政治改革法案は一旦否決されました。
金田議員は社会党で1年生議員ながら、小選挙区制反対の論陣を張り、社会党内はもちろんのこと支援労組からも猛烈なプレッシャーをかけられましたが、小選挙区制は民意を歪める選挙制度である、政治家は信念に従って行動すべきである、党としてまとまっていくことも重要だが党議拘束を外すべきである(ドイツやアメリカの議会では党議拘束はなく、良心の自由に従って投票をしている)、等の問題点を鋭く指摘しました。
その後、小選挙区制は結果的に導入され今に至っています。当時の社会党の衆議院議員で、小選挙区制に反対し現在も政治家として活動しているのは秋葉忠利広島市長と金田議員だけとなっています。
その後、細川政権が混迷混乱する中で、当時の小沢一郎新生党代表幹事の強権的な政権運営に反旗を翻し、自民、社会、さきがけによる連立政権樹立に力をつくしました。
さらに1995年4月に行われた北海道知事選挙で、社会党の推薦する候補に異議を唱え、伊東秀子衆議院議員を知事選に擁立し社会党を除名。私が金田議員の秘書となったのは、社会党除名となったこの年の9月でした。
北海道は労働組合の力が健在で、労組なくして選挙の闘いはありえない状況でした。
秘書として初めて函館を訪れた11月、金田議員の後援会総会に参加しましたが、これが国会議員の後援会かというほどの小さい集いでした。
しかし、金田議員の活動に理解を示してくれた、熱く、個性的な人々の集まりでした。この現実から始めるしかないと腹をくくって、私の秘書仕事の第1歩となりました。
ゼロからの出発、金田議員の議席を守るために何でもやったあの経験は、今の自分の政治家としての基礎をつくったといってもいいと思います。
その後金田議員は、さきがけに入党。1996年の民主党結党に参画し、1996年、200年は比例単独で当選。2003年は小選挙区制で勝利。2005年には小選挙区で連続当選を果たしました。
選挙区的には民主党同僚の鉢呂吉雄衆議院議員との小選挙区をめぐる激しい公認争いの一方で、国会では平和、人権、環境、弱い人の立場に立つ、医療、福祉など少数派の立場に立つ政治姿勢は素晴らしいものでした。
とりわけ2001年9月11日、米国ニューヨークでのアルカイダによるテロ事件により、日本政府はテロ撲滅を表向きの理由にしつつブッシュのアメリカによるアフガニスタンへの報復戦争を事実上支援するテロ特別措置法をめぐって民主党内が大揺れとなりました。
あくまで自衛隊の海外派遣に反対する立場を堅持し、論陣を張りました。民主党からの除名をチラつかせる執行部の圧力を撥ね退け、反対を貫きました。
さらには、今ではあたりまえとなってしまった議員立法についても臓器移植法案で大いに注目されました。
脱原発では北電労組に強い反発を受けながらも、民主党内でただ1人といっていい脱原発、自然エネルギー推進の論客としても名を馳せました。
最近のマスコミを賑わしているコンビニ問題も、弱い立場のオーナーさんの訴えを国会で追求、タクシーの規制緩和の問題、非正規労働者の問題と、少数派の立場を擁護し国会で活動を続けました。
しかし私たち秘書の心配事は、今だから明かせますが金田議員の体調でした。
1996年の衆院選投票日前日の函館での街頭演説直後に、宣伝カーから降りた金田議員が突然フラフラとして倒れそうになりました。その場は何とか収めましたが、選挙後、精密検査を受けたところ、心臓肥大との診断結果で今後無理をすれば、心筋梗塞か脳梗塞を発症する可能性があると医師に宣告されました。
金田議員は厳しい政治的局面に立たされた時に、いつも私に「命までとられるわけじゃないよ」と笑っていましたが、命がとられるかもしれない状況になってしまいました。
その後はクスリを処方し続けましたが、多忙、疲労、ストレスで体調はいつも優れなく、血圧も上がり続け、とうとう2006年の1月、脳梗塞で倒れました。幸い何とか命はとりとめ、リハビリで現在までの体調に回復しました。
私にとって心残りは、2005年1月より地元群馬で自らの選挙準備に入っていたため金田事務所を離れていたことでした。
多分もう、こういう国会議員はでてこないと思う。
政権をめざし、多数派をつくることをめざしつつ、少数派の立場にこだわり続けた金田議員。少数派の中にこそ普遍性があり、政治の真実があり、100年後の日本と世界の未来がある。そんな信念を貫いた金田議員の政治家としてのあり方を私は継承していきたい。
金田議員、ご苦労さまでした。私の本当の師匠。金田議員の激しさと優しさに、心の底から感謝いたします。ありがとうございました金田議員。
昨日は八ッ場ダム反対集会で前橋へ。夜は上野村へ。
私のブログで都度都度、金田議員について報告させていただいてきましたが、政権交代を前にして国会を去ることは、無念の思いもあると思います。
しかし、全力で走ってきた国会議員としての活動の16年は素晴らしいものだと思います。
1947年生まれ。高校卒業後、函館市役所勤務。若い時から自治労函館市職労の労働組合活動に参加し、本人曰くユニークな労働組合活動を展開。
函館市に多分日本で最も早い時期に臨時職員のみなさんの組織化、ゴミの収集等の公共委託サービス事業の組織化等、無権利、厳しい労働環境に置かれた非正規職員等の弱い立場、少数派の立場に立った労働運動づくりに取り組んできました。
31歳で函館市議会議員に当選。4期連続当選し、1993年7月に衆議院議員に初当選。
1993年の衆議院議員選挙は細川連立政権が誕生した年で、新しい政治が始まるとの期待が膨らんだ時でもありました。
その一方で、衆議院議員の選挙制度を小選挙区制に変えるとの法案も出され、当時金田議員が属していた社会党は、細川連立政権を維持することと、小選挙区制に反対することの両立に苦しみ、党内論議は混迷しました。
社会党は連立維持を優先させ、苦渋の選択として小選挙区制賛成に踏み出したが、社会党内の反対派は激しく抵抗を続け、1994年1月、参議院での小選挙区制を含む政治改革法案は一旦否決されました。
金田議員は社会党で1年生議員ながら、小選挙区制反対の論陣を張り、社会党内はもちろんのこと支援労組からも猛烈なプレッシャーをかけられましたが、小選挙区制は民意を歪める選挙制度である、政治家は信念に従って行動すべきである、党としてまとまっていくことも重要だが党議拘束を外すべきである(ドイツやアメリカの議会では党議拘束はなく、良心の自由に従って投票をしている)、等の問題点を鋭く指摘しました。
その後、小選挙区制は結果的に導入され今に至っています。当時の社会党の衆議院議員で、小選挙区制に反対し現在も政治家として活動しているのは秋葉忠利広島市長と金田議員だけとなっています。
その後、細川政権が混迷混乱する中で、当時の小沢一郎新生党代表幹事の強権的な政権運営に反旗を翻し、自民、社会、さきがけによる連立政権樹立に力をつくしました。
さらに1995年4月に行われた北海道知事選挙で、社会党の推薦する候補に異議を唱え、伊東秀子衆議院議員を知事選に擁立し社会党を除名。私が金田議員の秘書となったのは、社会党除名となったこの年の9月でした。
北海道は労働組合の力が健在で、労組なくして選挙の闘いはありえない状況でした。
秘書として初めて函館を訪れた11月、金田議員の後援会総会に参加しましたが、これが国会議員の後援会かというほどの小さい集いでした。
しかし、金田議員の活動に理解を示してくれた、熱く、個性的な人々の集まりでした。この現実から始めるしかないと腹をくくって、私の秘書仕事の第1歩となりました。
ゼロからの出発、金田議員の議席を守るために何でもやったあの経験は、今の自分の政治家としての基礎をつくったといってもいいと思います。
その後金田議員は、さきがけに入党。1996年の民主党結党に参画し、1996年、200年は比例単独で当選。2003年は小選挙区制で勝利。2005年には小選挙区で連続当選を果たしました。
選挙区的には民主党同僚の鉢呂吉雄衆議院議員との小選挙区をめぐる激しい公認争いの一方で、国会では平和、人権、環境、弱い人の立場に立つ、医療、福祉など少数派の立場に立つ政治姿勢は素晴らしいものでした。
とりわけ2001年9月11日、米国ニューヨークでのアルカイダによるテロ事件により、日本政府はテロ撲滅を表向きの理由にしつつブッシュのアメリカによるアフガニスタンへの報復戦争を事実上支援するテロ特別措置法をめぐって民主党内が大揺れとなりました。
あくまで自衛隊の海外派遣に反対する立場を堅持し、論陣を張りました。民主党からの除名をチラつかせる執行部の圧力を撥ね退け、反対を貫きました。
さらには、今ではあたりまえとなってしまった議員立法についても臓器移植法案で大いに注目されました。
脱原発では北電労組に強い反発を受けながらも、民主党内でただ1人といっていい脱原発、自然エネルギー推進の論客としても名を馳せました。
最近のマスコミを賑わしているコンビニ問題も、弱い立場のオーナーさんの訴えを国会で追求、タクシーの規制緩和の問題、非正規労働者の問題と、少数派の立場を擁護し国会で活動を続けました。
しかし私たち秘書の心配事は、今だから明かせますが金田議員の体調でした。
1996年の衆院選投票日前日の函館での街頭演説直後に、宣伝カーから降りた金田議員が突然フラフラとして倒れそうになりました。その場は何とか収めましたが、選挙後、精密検査を受けたところ、心臓肥大との診断結果で今後無理をすれば、心筋梗塞か脳梗塞を発症する可能性があると医師に宣告されました。
金田議員は厳しい政治的局面に立たされた時に、いつも私に「命までとられるわけじゃないよ」と笑っていましたが、命がとられるかもしれない状況になってしまいました。
その後はクスリを処方し続けましたが、多忙、疲労、ストレスで体調はいつも優れなく、血圧も上がり続け、とうとう2006年の1月、脳梗塞で倒れました。幸い何とか命はとりとめ、リハビリで現在までの体調に回復しました。
私にとって心残りは、2005年1月より地元群馬で自らの選挙準備に入っていたため金田事務所を離れていたことでした。
多分もう、こういう国会議員はでてこないと思う。
政権をめざし、多数派をつくることをめざしつつ、少数派の立場にこだわり続けた金田議員。少数派の中にこそ普遍性があり、政治の真実があり、100年後の日本と世界の未来がある。そんな信念を貫いた金田議員の政治家としてのあり方を私は継承していきたい。
金田議員、ご苦労さまでした。私の本当の師匠。金田議員の激しさと優しさに、心の底から感謝いたします。ありがとうございました金田議員。
昨日は八ッ場ダム反対集会で前橋へ。夜は上野村へ。