遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『京の野仏』 水野克比古 光村推古書院

2019-02-12 18:28:28 | レビュー
 SUIKO BOOKS の一冊として出版された著者による写真集である。この本に掲載された野仏の写真を眺めていくと、冒頭の表紙に載せられた野仏が15ページに掲載されていて、洛東にある金戒光明寺の阿弥陀石仏だとわかる。写真の横に添えられた短文にその旨が記載されている。カバーの裏にも記載がある。
 15ページの阿弥陀石仏は昼間に濃緑の葉の樹木を背景に真正面から撮られた石仏の姿のようだ。表紙は夕陽を背景に石仏を側面かつ少し下方から撮られている。撮影の時刻も異なる。一見では同一の石仏とは思えない。
 逆に言えば、野仏の姿、その表情は季節と時刻と見る人の立ち位置や角度により変化するということだろう。こういう対比的な写真はこの石仏一体だけである。だが、野仏を撮るということについて、いい学びとなる実例だ。本書を開けて、これを対比的に眺めてみると興味深さが増すと思う。そして、現地に行き、見仏したくなるのではないだろうか。
 この写真集に取り上げられた野仏について、私自身既に訪れて眺めたことのある野仏がかなりある。だが、記憶から引き出されたイメージとここに掲載された写真を対比すると、ああこの季節にはこんな風に眺められるものなのかという新たな感慨と刺激を得ることにもなった。一方で、現地探訪で見落としていた仏像にも気づいた。未訪の野仏については現地での見仏への誘い、見落としについては再訪への誘いという形で、野仏探訪への動機づけを高められた。本書は2010年12月に初版一刷が発行されている。

 本書には、京都の屋外にある仏像の主なものが洛東・洛南・洛西・洛中・洛北という地域順で収録されている。石仏が主体であるが、青銅造の仏像も何体か取り上げられている。各写真に仏像についての簡単な説明と所在地などのデータが記されている。本書の末尾には、その所在地をプロットし、該当ページを記した地図が掲載されているので、便利である。
 尚、ここでは広義の「京」という意味で使われていて、洛南という地域に宇治市、京田辺市、木津川市(当尾ほか)、和束町、笠置町の野仏も取り上げられている。同様に、洛西地域として長岡京市、亀岡市の野仏も収録されている。当尾の石仏群については、10葉の写真が収録されるとともに、当尾の石仏群の簡略な地図も掲載されている。

 冒頭の「京の野仏」という一文に、著者は「京都は大小取り混ぜて数万体は存在する野仏の宝庫である」と記している。見仏探訪した記憶と本書に収録された所在地を重ねてみると、言われてみるとそうだろうな・・・・という気がする。化野念仏寺の石仏群、愛宕念仏寺の石仏群、大徳寺の千躰地蔵尊、引接寺(千本ゑんま堂)の石仏群、壬生寺の石仏群、京都国立博物館の庭に保存されている石仏群、石峰寺の五百羅漢像などを思い浮かべただけでもかなりの数になる。京都市内の各町内にはお地蔵さんが祀られている。一体でなく数体一緒に祀られてる小祠もある。本書にはそれらの場所の野仏も収録されている。
 
 また、「本書に掲載する写真は、単に即物的、資料的な表現ではなく、京都の自然風景の中に存在する野仏の有りのままの姿を写そうと心がけた」と著者は記す。「春夏秋冬、巡り行く季節の雪月花と仏像との交流」という視点で写された野仏はやはり眺め応えがあるように感じた。季節の花、樹木と仏像の交響はやはりアートである。一瞬の美しさがとらえられている。諸行無常ゆえの一瞬の美の定着といえるのだろう。

 この写真集にはプロの写真家故に撮影の許可と収録が可能となっている野仏も含まれている。私の経験では、例えば、石峰寺の五百羅漢像や善願寺の榧の木不動は屋外であるが拝観者には撮影禁止だった。ここに収録されている野仏で、他にもあるかもしれない。

 最後に、私的に印象深いと感じた野仏の写真をご紹介しておこう。
榧の木不動[善願寺]       p35
天王一石多尊石仏[京田辺市天王下] p38-39
和束弥勒磨崖仏[和束町]       p41
三体地蔵[当尾]           p47
如意輪観音石仏[宗蓮寺]       p63
十一面千手観音石仏[広沢池]   p74,75
石仏群[法金剛院]        p79
釈迦三尊石仏[善導寺]      p93
わらべ地蔵[三千院]      p96,97
三十三観音菩薩石仏[赤山禅院]  p104

この写真集を開く誘いになれば幸いです。

 ご一読ありがとうございます。