遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『建築から見た日本古代史』    武澤秀一   ちくま新書

2017-05-27 17:59:20 | レビュー
 日本の古代における著名な建造物を軸に据えて、それら建造物の創生にどういう意図が含まれていたかを著者は語る。日本の当時の時代背景や政治情勢との関連性の中で、当時の史料やいままでの研究成果を分析的に読み解き、古代史に大胆な仮説を立てている。それは著者の独創というより、学会の通説からすれば、多分マイナーな見解と思われる先人の所見を糸口に、さらにその仮説を建造物との関係で眺めていくというアプローチで独自性を加えた仮説設定となっている。この視点に著者のユニークな発想と展望があるように思う。

本書は、「Ⅰ 開化」、「Ⅱ 胎動」、「Ⅲ 誕生」の三部構成となっている。大きくとらえると、「開化」では仏教公伝の時期、蘇我物部の対立を経て、飛鳥寺という驚くべき大伽藍がまさに突如として出現したと説く。蘇我馬子の政治的影響力が強大であった時代を語る。勿論、その軸は「飛鳥寺」であり、それと関連し前方後円噴から方墳への墳墓の転換が行われた経緯を捕らえる。
 「胎動」では、舒明王権の時代、そして飛鳥板蓋宮のテロ事件にはじまる大化改新と皇極という女帝の出現、法隆寺の変遷を語る。建造物としては、大王の宮の場所と建造物の変遷、その中でも難波宮における八角形建物が建てられた謎を分析する。著者は法隆寺が二度生まれた真因について仮説を立て、論じていく。
 「誕生」では、歴史上「壬申の乱」と呼ばれる天武天皇への政権の変化の意味に新たな光を投げかける。そこに大胆な仮説を立てて、天武から持統による「万世一系」思想の創出の裏の意味を読み解いていく。皇位の継承というルールづくりが如何にして生み出されて行ったかが、鮮やかに読み解かれていく。日本の歴史学会という枠組みの世界では語られることのない視点と仮設がおもしろい。皇極による舒明陵造営以来、天武-持統陵まで八角墳が引き継がれた理由が説かれる。そして、藤原京の建設と伊勢神宮の式年遷宮の始まりが、「万世一系」への建築的実戦、その思想のビジュアライズという巧みな意図を仮説化する。第3部の「誕生」は、持統天皇が主役となっていく時代とする分析がおもしろい。
 公式の歴史書に記述された内容、限定的に記述されるだけの内容と、考古学的発掘調査から分かった建築学的知識、現存する建造物やその痕跡などを組み合わせることから明らかになる事象が、巧みに読み解かれていく。歴史学会、建築学会という個別の学者世界では論じられにくいと思われる領域に著者は踏み込んでいるのではないかと思う。2つの異なる学問領域の組み合わせによる仮説設定から、そんな歴史の読み解き方ができるのか・・・・という思いである。教科書的歴史では絶対に語られない視点が興味深い。目から鱗というところがある。

 著者の論点の一部でああるが、関心を抱いた箇所を私なりの理解で箇条書き的にまとめてみたい。この論点がどのように読み解かれていくか、そこに読ませどころがある。
 まず、「Ⅰ 開花」と「Ⅱ 胎動」の論点をブレークダウンして列挙する。
*仏教公伝がなされた磯城嶋金刺宮は三輪山のふもと、初瀬川のほとりにあった。磯城は、三輪山の神の領域だった。
 「日の光を受けて、金物に被覆された千木が輝く希有な光景への賞賛。これが金刺宮の名を生んだのではないか」(p31)
*舒明帝の当時、仏教は東アジア世界において文明国が具備すべき基本要件となっていた。個の救済より国家鎮護を重視する中国化した仏教が導入された。中国仏教の導入なしに先進文明の摂取はできなかった。つまり、仏教導入問題は、まず外交問題だった。
*外交を一手に担う蘇我氏が働きかけて「仏教公伝」が行われた。その裏には新羅の圧迫に苦しむ百済が倭国に軍事提携を求めていたと言う事情がからんでいた。仏教公伝に伴う大陸の学問、技術、文化の摂取にこそ重要な意味があった。また、仏教導入は蘇我氏の権勢拡大に役立ち、軍事および神祇の職掌を担当していた物部氏にとっては既得権益の衰退に繋がる。そこに、蘇我氏と物部氏の対立の真因がある。
*飛鳥寺は蘇我氏の権勢の象徴となる。蘇我氏が飛鳥寺を造立し、仏教伽藍を築くことで、葬送の形は寺(仏教伽藍)と方墳の併存というあたらしいやり方に移行する。前方後円墳の大きさで権威を象徴化するやり方を捨てさせることになる。仏教を採り入れさせることは、蘇我氏の影響力拡大に繋がる。前方後円墳時代終焉の到来となる。
*飛鳥寺は造立計画が途中で変更され、一塔三金堂という百済にはない日本独自の伽藍配置になった。
*飛鳥寺建立は蘇我氏の実力を知らしめるものとなる。本尊の飛鳥大仏の発願も馬子である。『日本書紀』が「天皇」を飛鳥大仏の発願の中心に据えたのは、「天皇」の存在という体面を保つためである。
*蘇我入鹿を板葺宮で中大兄皇子と中臣鎌足らが殺したのは、大王側が仕掛けたテロ事件である。それはあくまで蘇我本家を滅ぼしたのであり、蘇我氏傍流は大王側の加担し、存続した。飛鳥寺は蘇我本家のものから、国家の大寺として我が国の宗教・文化の中心機関となる。つまり外来文化・文明を集積し発信する「文明開化」の一大拠点となる。
*『日本書紀』は虚と実が織り交ぜられている。四天王寺の創建、斑鳩の開発は、厩戸皇子が行ったとされるが、実質は馬子の国家デザインによるものである。ともに、外交的戦略視点に絡んだ立地である。
*厩戸皇子創建の法隆寺は斑鳩寺であり、それは斑鳩宮とセットとなっていた。厩戸の没後、伽藍の造立は山背大兄に継承され、伽藍の造立が完成される。この法隆寺は、蘇我入鹿の斑鳩宮急襲により、結果的に上宮王家の法隆寺集団自死事件の聖地となる。天智が法隆寺を新創建し、厩戸法隆寺における山背以下の上宮王家の痕跡を排除してしまう。そして、仏教の普遍信仰の中に、厩戸だけを位置づけ、聖徳太子信仰に変容させていく。

 これらの論点を具体的に説明していくプロセスを経て、「Ⅲ 誕生」のステージが論じられていく。この誕生のステージが古代史を考える上で興味深い論点を投げかけている。こちらは、本書を楽しんでいただく上での大きな論点だけ要約して、ご紹介する。その論証プロセスが読ませどころとなる。
*著者は、『日本書紀』は強い政治的主張を貫くように歴史的事実が編纂されて、為政者の意図が組み込まれたという立場を取る。それは「万世一系」思想であり、「天皇」の用語法にあるとする。著者は、「事実を直視する」ならば、「Ⅰ 開花」「Ⅱ 胎動」までのステージの日本は、「大王」という用語が相当するという立場をとる。
*「天皇」の実効性がいつから発揮されたかを見極めることができれば、そこから「天皇」を用いるのが適切と論じる。
*『日本書紀』は天武天皇の命令により編纂された史書である。政治的主張のもとに、「あることを成り立たせるためには、記述を書き換える、創作を加える、あるいは削除する、というようなことがあり得たのです」(p231)という理解のもとに、なぜ「万世一系」が意図されたかを読み解いていく。
*歴史書でありかつ政治文書である『日本書紀』は天智と天武の二人の血縁関係については、なぜか詳細に記述がないという点に鋭くメスを入れ、天武は天智の弟ではなく、実は兄だったのではないかという仮説を論証し、その前提で「Ⅲ 誕生」のステージを読み解いていく。
 そして、現在の歴史書で「壬申の乱」と呼ばれるものの実態は天武による壬申の武力革命だったと論じる。それは武力により王位簒奪を成し遂げた革命なのだと。この武力革命および天武による皇位継承の正当性を後付け、今後の皇位継承方針の確立こそが『日本書紀』に課された政治文書として側面であり、そこに編纂方針の拠り所があると論じる。この論証プロセス、結構惹きつけられるところがある。
*天武天皇の皇后である鸕野(うの)は中大兄王子(天智)を父、母は遠智娘(おちのいらつめ)である。遠智娘は孝徳王朝における右大臣・蘇我倉山田石川麻呂で、石井川麻呂は板蓋宮の変で中大兄王子に味方するが、後に讒言により謀反の罪を着せられ649年に自死に追い込まれる。その上に、中大兄王子に遺体が切り刻まれたという。母遠智娘は悲嘆し病床に伏し、2年後に?野の弟を出産後間もなく死亡。鸕野の祖父、母に対する父・天智の扱いに対し恨みを抱いていたと著者は読み解く。それ故に、天武の武力革命において積極的なパートナーの役割を担い、天武の没後は皇位を継承し持統天皇となった段階で、王権の確立・存続構想を更に一歩進め、独自に展開して要ったのではないかと当時の建築の有り様との対比で論じていく。
 つまり、舒明-皇極の前史をふまえ、持統は「生前退位」とう方法で「万世一系」の思想の定着を確かなものとしていく。その象徴として皇位継承毎の遷宮ではなく、天皇の都の固定化、恒久化を藤原京の造営で示していく。その一方で、伊勢神宮の整備と式年遷宮という仕組みを残すことで、新生の象徴とすると説く。そして、皇祖神は「日女の命→皇祖母尊→天照らす日女の命→天照大神」(p388)と脱皮し変容を遂げて、持統自身をアマテラスもの、皇祖神になぞらえていったと説く。なかなかうがった視点と思う。
 また天皇の皇位継承において、万世一系の考え方を導入し、持統が己の血統の正当性を、天皇の墳墓の形にも表象して知らしめていったとする。それが八形墳という形式ビジュアライズ化である。既に完成していた天智陵は699年の「営造」担当者の任官により、八角墳が整備されたとする。そして、天智-天武-文武という八角墳の系譜により皇統譜を明瞭化表象化したとする。
 
 皇位継承に伴う遷宮の場所、飛鳥寺に始まる寺の伽藍形式、古墳の形式の変化と天皇陵の八角墳、藤原京という恒久の都の造営と伊勢神宮の形成など、具象化された建造物と建築の視点から古代史が読み解けるというのは、実におもしろい。古代史の見方が変わってくるとともに、古代史の捉え方に広がりと奥行きがここに追加されたと言える。
 歴史書は勝者が書き残し、勝者の歴史であるといわれる。誰の立場、視点から歴史を見るかで、歴史の読み解き方が変わる。まさに連綿とした興味の尽きない過去世界が広がっている。

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本書に関連して、関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
磯城嶋金刺宮 ← 志紀し間の やまと乃くには  
法隆寺 ホームページ
法隆寺のことが全てわかる!  ホームページ
法隆寺若草伽藍跡発掘調査報告書 :「全国遺跡報告総覧」
若草伽藍と現法隆寺 :「kitunoの空」 
乙巳の変  :ウィキペディア
乙巳の変  :「コトバンク」
飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡)  :「飛鳥散策スポット」
飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡)
難波宮跡
藤原宮跡八角墳とは  :「古墳マップ」
野口王墓古墳 八角墳だった天武・持統天皇合葬墳 
天智天皇  :ウィキペディア
天智天皇  :「コトバンク」
天智と天武の関係について  :「趣味の館」
天武天皇  :ウィキペディア
天武天皇  :「コトバンク」
持統天皇  :ウィキペディア
持統天皇  :「コトバンク」

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