遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『びいどろの火』 奥山景布子 文藝春秋 

2012-09-20 10:59:30 | レビュー

 知人のブログ記事の中の数行の感想から、本書に興味を抱いた。
 全く初めて読む作家の作品だ。いっきに読んでしまった。そこに描かれたのは一つの極限の愛の姿。スピリチュアルな愛とフィジカルな愛の混淆、共存が普通としたら、それから外れた愛の形の顛末物語といえようか。スピリチュアルな愛とフィジカルな愛の相克。切なく哀しい愛の歎きが止揚された愛の様相に転換する物語。だが、一方に、妄執を抑制させねばならない哀しみも残る。愛のありかたを問いかけた作品である。併行して、同時存在する様々な人生模様をも描く。

 副次的に、18世紀半ばの尾張名古屋の城下町の雰囲気や風物・情緒が感じ取れて興味深い。私には時代小説でこの地域が直接の舞台となる作品を読んだことがことがないので、ストーリーの背景空間そのものにも新鮮味を感じた。
 また、”「姥が餅でもいただきましょうか」草津名物の姥が餅は、赤福と同じ横町に店があった。”(p204)という箇所を読み、本筋とは無関係だが、個人的に面白いと感じた。近江商人の全国店舗展開の仕組みというのは知っていたが、「姥が餅」というお菓子の店も名古屋に出店をもっていたというのを初めて知ったからだ。(多分、このあたりは史実を踏まえた記述だろう。)派生的に、京都のお菓子の老舗はどうだったのだろうか、ということが気になった。

 「序」は、宝暦11年夏。嵐粂三郎一座が尾張名古屋、大須で芝居興行中の状況から始まる。「日高川」の踊りについての会話が冒頭に出てくる。立女方・佐ノ川花妻が弟子の菊松と惣吉に、五十に手が届くという荻野綾鼓に踊りの稽古をつけてもらえと指示する。今、一座の後見的立場の綾鼓は江戸の女方だった。綾鼓はまず二人を連れて、この踊りには信心が必要と、大須の観音様にお参りする。立ち寄った茶屋で、綾鼓は老夫婦者に目を止める。
 こんな描写がある。
「ちょっと見には非の打ちようもなく品の良いご隠居夫婦だが、どこか様子が不自然だった。お内儀の方が、話す時にいちいち旦那の耳許に口を近づけて囁く。こっちには聞こえない。旦那は軽く首を傾げて、うんうんとにこやかに頷きながら、お内儀の囁きを受け取る。・・・・・茶が運ばれると、お内儀は店の女に軽く会釈し、それから旦那の掌に字を書くような仕草をした。」
程なく夫婦は店を出る。それを見つめる綾鼓の「目から涙が溢れ落ちている。・・・綾鼓は夫婦者の姿が消えていった参道の方を向いたまま、頻りに鼻水を啜りあげるばかりである。しばらくして、綾鼓は漸く袖で涙を払う」

 本文は、享保17年3月朔日に時を遡る(30年近く前になる)。八代将軍吉宗が享保の改革を推しすすめていた時代である。だが、尾張名古屋は徳川宗春の治世にあり、独自の政策を進めており、寺社の境内に代わる代わる芝居の小屋がかかるくらいの賑わいをみせていた。
 主人公は加藤佐登。加藤家の現当主は弥左衛門だが、隠居していた先代当主が身の回りの世話をしていた奉公人・清に手をつけて、産ませたのが佐登だった。弥左衛門には、先月祝言を挙げた吉太郎、学問熱心な市之進という息子たちと、徐々に視力の弱っている娘・波留がいる。弥左衛門の妻そして、吉太郎の嫁・寿美を含めたこの一家の中で、佐登はその出生の故に加藤家の日陰者という立場での生活を送っている。佐登には、弥左衛門夫婦に娘同然に育てられたとはいえ、遠慮がちな厄介者という自覚がある。
 そんな佐登が波留、市之進と一緒に大須の観音様にお参りに行く。その境内で迷子の子どもに出会い、その保護者探しの手助けをする。そこで、子ども(孫)を助けられた老人・菱屋善兵衛との縁ができる。佐登は請われるままに善兵衛の隠居所を訪ね始めることになる。そして、佐登の人柄を気に入った善兵衛は、嫁取りをしようとしない息子・善吉の嫁にと、弥左衛門に申し出ることになる。善吉は父の意向を受け入れる。

 父の気に入った娘・佐登との祝言をした善吉だが、彼は人に言えない苦しみを抱えていた。それは佐登の苦しみにも繋がっていく。「嫁に来た女に、いつまで経っても指一本触れぬ人と、ずっと寝起きしている」(p88)、そんな生活が始まるのだ。
 だが、その事を誰にも語れない佐登。「独り寝の夜を、一人だから寂しいとは思わない。いつだって寂しいのだから。」(p124)と。
 一方、善右衛門の所持する冊子や管子の整理を佐登は頼まれる。そこには、着物の図柄の雛型が記録されていたり、芝居が記録されている。その整理の過程で、善兵衛から様々なことを学び始め、菱屋のお内儀として、商売の方でも手助けができるようになっていく。傍目からみれば、菱屋の立派なお内儀。佐登はその立場・役割に馴染んで行くのだ。その様子を見る善吉は佐登への親しみや思いを深めていくが、彼の性癖そのものは変えられない。佐登は指一本触れぬ善吉になぜ?と質問するのを躊躇する。様々に思い悩むが、善吉の答えが怖い・・・・・。
 舅である善右衛門の優しさと思いやり。佐登にはこのうえない庇護者。一方、商売熱心で昼間は優しい誠実な善吉。だが閨では佐登に触れようともしないつれなさ。

 頼りにしていた善兵衛が病がもとで亡くなり、善吉はその忌明けの供養代わりに上得意や差配人を招待し、評判になっている萩野八重桐という女方の芝居を見ることを思いつく。そして芝居後に手配の料理屋でのお客様のお相手に佐登も加わることになる。その席に八重桐が二人の弟子とともに招かれて、芸を披露する。
 弟子の一人・志のぶという役者が佐登に、お見知りおきをと近づいていく。座がお開きになった後、家に戻った佐登は袂に知らぬ間に入れられていた小さな結び文に気づく。それは志のぶが入れたものだった。
 志のぶにとっては、芝居興行の旅先での金づる、慰み事の情事の一つとして始まる戯れごと。だが、佐登にとって、善吉からは満たされることの無かったフィジカルな愛のはじまりになる。「志のぶのことが一日中頭を離れぬようになっていた」(p129)という状態に陥っていく。だが、菱屋のお内儀としての立場、善吉の嫁として、それを気づかれてはならない・・・・佐登の心の葛藤が始まっていく。それを誰にも打ち明けられない。

 菱屋の商売にも馴染み、自らの工夫も出してくる佐登に、何時しか善吉の思いは深まっていく。「笑って、側にいてくれ。穏やかな顔で、ずっとここにいてくれ。」(p151)と思いつつ、「酔った勢いを借りて佐登に触れようとして、挙げ句果たせなかった夜の情けなさが忘れられぬ。かような自分を、佐登はいつか見限るだろうか。・・・・」(p151) 善吉の苦悩もまた深まっていく。スピリチュアルな愛は深まるけれど、フィジカルな愛には踏み込めない善吉の苦悶。

 うたかたの情事のつもりで始めた結び文。だが逢瀬が重なるにつれ、佐登の思わぬ振る舞いとその思いを受け止めていくことになる。志のぶの心も次第に揺れ動いていく。それは志のぶにとって、かつて経験したことのない苦しみの始まりでもあった。

 一つの極限からの愛が、三者三様の心理的葛藤となって展開していく。

 この物語で、佐登の気持ちには一つの枷が存在する。それは、市之進である。目の不自由な妹・波留の目が何とかならぬかという思いから、学問の道を目指す市之進。細井先生から眼鏡の仕組みを教えられ一組のびいどろを借りる。そして、波留の目に合わせた眼鏡ができないかという夢を抱く。びいどろから安くて人々が入手できる眼鏡が作れないか、その思いを市之進が善兵衛に語ったことがきっかけで、善兵衛は市之進への先行投資だと言って、京都への遊学の費用負担を請け負う。それが、佐登の菱屋への嫁入りと併行して進んで行く。市之進は、京都に旅立つ前に、細井先生から譲られたびいどろの一つを佐登に託して行く。善兵衛は遊学費用の援助と佐登の菱屋への嫁入りは全く別物と断言するが、佐登の心には市之進が遊学先で学びを深められるのは善兵衛の支援があるからこそという思いが強い。それが心の枷となる。

 その託されたびいどろが光を集めると火を生じることを、佐登は偶然に知ってビックリする。
 本書のタイトル「びいどろの火」は、びいどろから眼鏡作りへの情熱を追う市之進の行動と思いという局面を背景にしている。そして佐登の心という「びいどろ」に、善兵衛、善吉、志のぶというそれぞれの光があたり、それが屈折して産み出す佐登の心映えが重ねられているように思う。その中で志のぶという光がびいどろを経て火を発する。佐登の生き様に大きな影響を投げかけ、この物語が展開していく。

 スピリチュアルな愛とフィジカルな愛、その相克を経て、どのように止揚されていくのか。あるいは、妄執を心の奥深く秘していくのか。本書にはこの極限の愛の様相が描き込まれていく。私はそんな風に受け止めた。
 
 本書に出てくる語句をネット検索していて、著者自身のブログがあることを知った。
 ブログ記事の一つで、こんな記述を見つけた。引用させていただこう。
”「荻野綾鼓(おぎのりょうこ)」という役者が出て来ます。この「綾鼓」、若いときは別の名を名乗っていまして、「綾鼓」は晩年になって名乗った名前。・・・・イメージは、役者さんが使う「俳号」でした。・・・・この名、お能の「綾の鼓」から取りました。きれいだけど、鳴らない。老人の恋の妄執を象徴するような小道具です。”

 さて最後に、印象深い文章を引用しておきたい。
*自分がした商売の結果、人々の暮らしががらりと変わる。その商売の先と後とで、世間様に明らかな違いがある。そんな商売が実は一番楽しいと、私は思うのですよ。  p41
*人というものはおかしなものでな。同じ物を欲しがるくせに、違っていて欲しいのだよ。 p65
*好いた惚れたでなくともさ、縁があって、側で見て、添うてみて。そこから、ゆっくり出来る仲もあるもんだ。あんまりゆっくりし過ぎてると、手遅れになることもあるがね。  p106
*なぜこれがお客に受けるか、お前たち、おわかりかえ。きれいな二人が、きれいに死んでいくからだよ。当たり前と笑っちゃいけないよ。このきれいな二人には将来がない、そこに一番きれいな、哀れがあるんだ、幻があるんだからねえ。  p186
*これから娑婆で泥水を被って生きていかなくちゃいけないかもしれない人たちを、そんなきれいに語っちゃあねえ。将来が気の毒だって言うんだよ。人間、一番きれいな時っていうのは、ほんの一時。幻みたいなもんだからねえ。  p187

 何となく「序」を読み進め、本書をいっきに読み終えた。そして、再び「序」を再読した。そこで、この物語がしっくりとおさまり、幕がおりたな・・・・そんな気持ちを抱いた。


ご一読、ありがとうございます。


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 本書を読みながら、気になる語句を検索してみた。一覧にまとめておきたい。
 本書に出てくる芝居関連で、役者名や演目のことを検索してみたが、詳細な情報源に巡り合えなかったのが残念だ。

荻野八重桐(初代) :コトバンク
徳川宗春 :ウィキペディア
大須  :ウィキペディア
吉田の花火 → 豊橋祇園祭
巻藁船 ← 津島天王祭り 巻藁船の模型 :「blog真清鏡光」
  巻藁船と山車の華麗なる競演~大野祭り(常滑市):「Let's Go! あいち」
有松絞り ← 有松・鳴海絞り :ウィキペディア
有松絞り 絞りとは? :「有松・鳴海絞会館」

大須観音  :大須観音のHP
江戸時代の名古屋城下「清寿院(大須)」 :「Network 2010」
明眼院  :ウィキペディア
  愛知県海部郡大治町の明眼院 画像16枚 :「愛知限定 歴史レポ」
七ツ寺 ← 尾張七寺三重塔(稲園山正覚院長福寺):「がらくた置き場」日本の塔婆
桜天神社 :「Yumemusubi no Mori」
闇森八幡 ← 「485 闇の森八幡社」名古屋なんでも情報:「あくがれありく」
「睦月連理椿」初演の跡 :「名古屋市教育委員会の標札 見てある記」
誓願寺 :「-名古屋を探検する-」

綸子 :ウィキペディア
友禅染 :京都市「文化史13」

四君子 :ウィキペディア
椿 数寄屋侘助  :「山野花めぐり」
椿 熊坂 :「花の手帖」
椿 白玉 :「けいこたんち」
椿 乙女 :「季節の花 300」
椿 有楽 → 有楽椿の里:「グルネット宮崎」
ロウバイ :ウィキペディア
ミツマタ :ウィキペディア

日高川 ← 坂東玉三郎 「日高川入相花王」:YouTube
嵐三十郎(二代) :「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」
傾城佛野原 ← 演劇公演 けいせい仏の原:「三国湊魅力づくりPROJECT」
嫗山姥  :「おたべず・はうす」
道成寺伝説 ← 安珍と清姫の物語 :「ななかまど」

幾代餅  :「食べもの語源あれこれ」
姥が餅 → うばがもち物語 :「うばがもちや」HP

眼鏡の歴史 :「東京メガメ」東京メガネミュージアム

著者のブログ:
"けふのおくやま~奥山景布子と申します。"
 上記本文に引用したソース
 

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