老いて楽しく

余生を楽しむ

水害後の厄介物

2019-10-15 09:39:40 | 日記
後に残った赤土
 
過去に巨大台風が水害を起こし大被害を齎した例は枚挙にいとまがない。
昭和9年9月「室戸台風」 昭和20年終戦の年の9月「枕崎台風」 昭和33年「狩野川台風」 昭和34年「伊勢湾台風」2年連続 昭和36年9月「第2室戸台風」そして今回、関東から東北にかけて各河川が氾濫、堤防決壊で膨大な範囲の水害が起きた、特筆される台風だと思う。

普段澄んだ清流は水はサラサラ、水に重みはない軽く流れているが、穏やかな清流も、豪雨により増水すると、その形相は一変、暴れ川になる、大雨が山肌を溶かし山の粘り気のある赤土を含むと、とても重い水になり、護岸の為の石垣 芝張りも簡単に破壊してしまう、川幅一杯に広がった濁流は、堤防の下を抉っている、自分の足元が無くなっているのだ、濁流を見に来ていた数人が、堤防が崩れアッと言う間に濁流の飲まれたのを目撃した、いい教訓になった。

昭和21年山梨県日川村に疎開していた、少し山際に行くと勝沼の葡萄卿、更に山へ入ると、武田勝頼が織田 徳川軍に滅ぼされた天目山があり、そこを源にした日川がある、川幅10m足らず、深かいところで膝上くらい、魚釣り 魚の手掴み、農業用水の為 堰停めたところで水泳を楽しむ穏やかな河川。

この天目山に3日3晩降り続いた雨が日川の堤防を決壊させ大洪水を起こした、今の様に情報網がない時、土手の見張りの人から、土手の何処が崩れ始めたと刻々伝達される、決壊個所の少し上の土地から決壊状況をつぶさに見た、土手が少し決壊そこから濁流がたちまち決壊個所を広げていく、その濁流が村内の甲州街道をすさまじい勢いで流れて、舗装していない国道の道を削りたちまち浸水区域が広がる。

上流で崩壊した家から流れ出たのか、風呂桶 家財 牛馬などもなども流れていく、勝沼から甲府盆地へ下る緩やかな傾斜地、平坦地へひたひたと浸水するのと違い、甲州街道を中心にかなりの勢いで流れ下る、川の水が引けば浸水もなくなった。

広い河原一杯増水した河川、堤防が決壊、村内へどっと流れ込む濁流、子供心に一つのドラマのように頭に記憶された、恐怖心は何もなかった。
 我が家も床上1mくらいの浸水、それなりの被害もあったが、壊滅的なものではなかった、浸水しない親類へ1晩世話になった。

只一番厄介なのは、山の粘り気のある赤土を含んだ水が引いた後、床下床上にこの土が残る、これが何とも厄介、水気を含み粘りのある赤土の排出だ、スコップにへばりつきなかなか離れない、水を含みとても重い、少し水気を抜くと今度はコチコチに硬くなる、地方によって呼び方は違うと思うが、山梨ではこの赤土を「かつら」と呼んでいた。

この「かつら」が田んぼ 畑へ堆積すると作物は実らない、田んぼへ溝を掘り「かつら」を底へ埋め黒土を上にする、この天地返しが大変な作業、今のように大型耕運機等なく、総て手作業大変な復興作業だった、中学生だった小生も、復興に寄与した。