疎開先烏山市に母校の記念樹があった |
小生縁故疎開したため、集団疎開は経験していない、依って集団疎開の厳しさ 苦しさ 辛さは判らない。 烏山市のお寺、旅館 民家に分散して集団生活をしていたようだ、食糧事情 衛生面 親元を離れた寂しさ、いろいろな面でつらい過酷な生活を強いられたのかもしれない。 各寺院他に分散宿泊していたが、疎開本部は当地のお寺「慈願寺」だった、この本部から疎開児童へ各種管理 情報が発せられていたようだ。 戦後地元の栃木県立烏山女子高等学校 社会部の生徒が、昭和55年に「地域から見た戦争」をテーマに、我が母校の生徒たちの疎開生活を、大嶽浩良教諭指導の下で史実 資料を調査 研究を重ね論文に纏め、小冊子を作り同校の文化祭で1部300円で販売、その売上金で百日紅の苗木を購入、焼失廃校になった母校富士前小学校の為、疎開先本部になった「慈願寺」の境内に記念樹を植えてくれた。 昭和19年当時烏山に疎開した2組の級友有志数人が、平成18年に大変お世話になった当地寺院 旅館等を訪ね、当時お世話になったお礼を述べた、その折本部の「慈願寺」に当校の記念樹が有ることを知らされた. 戦災で焼失廃校になった母校の形見の様な「思い出の木」が遠く離れた烏山市に有る事に感動、記念樹の脇にその由緒と感謝の気持ちを記した銘鈑設置するプロジェクトが発足した。 当時のクラス編成は1組は男ばかり、2組は男女半々、3組は女ばかりだった、52年目の卒業式は1組主導だったが、銘板設置は2組主導で事業は進められた。 2組の委員達が文京区役所、現地寺院と折衝、銘板制作業者と打ち合わせ、資金調達等、苦労をしたようだが、1組と3組は協賛の為打ち合わせ会に出席で気楽だった。 平成20年9月8日30人弱の同級生が訪烏、本部の慈願寺の記念樹の脇に銘板設置を希望したが、記念樹の所へはあまり人が行かないので、法事などで人の出入りの多い本堂玄関入り口の上に掲額された。 小生縁故疎開したので集団疎開の烏山は全く知らない、どんな風景のどんなお寺に分散して暮らしたのか、それをこの目で確かめたくて掲額一行に参加した、周りは山に囲まれ那珂川の清流が市内を流れしっとり落ち着いた風光明媚な所だ、平和な時にこの地に住んだら、心広く大らかな生活ができそう、だが戦争が熾烈を極めている時であり、疎開児童には親から離れ 衛生面 食糧事情 つらく悲しいことが多かったようだ。 お世話になった各寺院へお礼の挨拶に行く、代が変わった住職も多かったが、疎開児童の事は語り継がれ話してくれた、とても優しく歓迎してくれた、お礼訪問した児童も70歳半ば、温かく歓迎してくれた住職方と、昔を語り合う本当に平和は有難い、我々昭和一桁に生まれ、戦争を体験したが、平成20年を以て戦後は終わった。 |
学童疎開で各寺院宿舎に分散宿泊した、その本部になった 慈願寺 |
烏山女子高生徒が我が母校の記念樹を植えてくれた、慈眼寺境内にある百日紅 |
学童疎開について研究テーマを主導された大嶽先生、当時の資料集め、真実追及の苦労を、縷々語ってくれた、素敵な先生だ。 |
疎開本部になった 慈願寺の住職さんにお礼の記念品を贈る |
慈願寺本堂玄関上に掲げられた記念額 |
額の除幕 |
記念樹の前で慈願寺住職と大嶽先生と記念撮影 |
同級生がお世話になった 寶憧院、那珂川を越した地に有り閑静なたたずまい |
烏山新聞に当日の模様が掲載された |
小生の拙い戦争の思い出話も今回を以て終了します、毎日とても多くの方にお読み頂きありがとうございました。 今後も戦後の色々な事象について投稿すかもしれません、興味がありましたらお読みください。 |