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戦争後日談ー1

2018-12-07 08:45:11 | 日記
52年目の卒業式
 
 3年8か月に及ぶ戦争も終わり、昭和19年9月から20年3月まで田舎の学校へ転校して、卒業証書も貰った、祖母の怪我で20年2月と3月は東京へ帰り、実質5ヶ月しか通っていない田舎の学校の卒業証書は重みもなく、母校本郷区富士前国民学校の証書が欲しかった。 
 

明治20年代に開校した本郷区でも由緒ある小学校、大正5年に改築された母校、左奥の出っ張りが階段と裁縫室だった、その階段の踊り場に、全身を映す大きな鏡が有り、そこに記された文字を今も覚えている 「鏡には 姿ばかりが 映るぞと  思う心の 恥ずかしきかな」今もこの教訓は心に残っている、今はなき懐かしき母校、5年と一学期通った。

 

 集団疎開した人達も3月末に卒業式の為栃木県烏山の疎開先から帰ってきたが、母校が焼失隣の昭和国民学校の屋上を借りて卒業式を挙行中、空襲警報が鳴り避難で卒業式中断、あとになって藁半紙に謄写版印刷の卒業証書を貰ったようだ、自分では田舎の学校の証書を貰っているので出席はしなかった。
 国民学校卒業式も満足に出来なかった過酷な年代だった。

 終戦から50年たった平成7年11月、元級友の有志が3大新聞の尋ね人欄に「富士前国民学校 昭和20年卒業生名簿作り」の記事を載せた、自分でも小学生時代の友と会いたいと消息を訪ねていたところ、その記事を見て有志に直ぐ電話した。

 その後芋ずる式に判明した級友数名が、母校近くの文教婦人会館の一室に会合、50年ぶりに旧友と会う、やはり面影は残っているが、どうしても思い出せない顔が有り、名字を聞いて えっそうなのかと思い出す、国民学校同級生の元気な顔を見てとても嬉しかった。

 ここで有志の考えが披露された「正式な卒業証書」を貰っていないので、改めて卒業証書を貰う会を立ち上げたい、その有志をT君としよう、以後T君を中心に改めて証書を貰うための会合を、2か月に一度、巣鴨駅前の喫茶店「ルノアール」で打ち合わせをした、『52年目の卒業式』を平成9年3月を目標に話を進めた、我々1組と 2組 3組を併せて60数名と連絡が取れた。

 このT君校長先生を経て、定年後も教育界に身を置き顔が広く、文京区長 教育委員会を説得、2か月に1回ほどの会合を重ね、企画も熟してきた、母校は空襲で焼失後廃校になったので、隣の昭和小学校で遣る事になった、この昭和小学校の校長先生もT君の後輩で全面的に支援してくれた。

この昭和小学校が改築を行い、平成9年1月に完成した、改築された小学校は非常に近代化された設備で、改築された同校卒業生より先に、我々52年目の卒業式を3月1日に挙行した。

 区長 教育委員会の委員長、同校5年生 6年生その父兄、我々の先輩卒業生も列席、テレビ各社 3大新聞の取材もあり盛大な卒業式が出来た、校長先生から卒業証書を一人ひとり受け、出席の区長初め多くの委員、在校生 先生方 先輩達に送られて会場を出た時は感謝で涙が出た、T君の努力が大きく貢献した。

 母校が焼失全ての資料が失われてしまい、卒業生の通し番号も不明、新たな番号を設定してくれた、新番号でもありがたい、母校の卒業証書を手にしたのだから。

 戦前から戦後の厳しい時代を乗り越えてきた我々昭和一桁の世代、52年目の卒業式で証書を貰い、戦後に区切りができたかと思ったが、まだ我々の戦後は終わっていなかった。

 
52年目の卒業証書を手にし、区長 教育委員 校長先生 各役員との記念撮影
 
読売新聞記事
 
 
52年目に卒業証書を手にして、戦時中を過ごした小学生にしては、まだ戦後は終わっていなかった。
朝日新聞記事