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鎮守様の豆撒き

2016-02-05 21:04:33 | 日記

 所沢yへ転居して55年になる、アット云う間に半世紀を過ぎてしまった、現役時代は神社参拝の余裕もなく、所沢の氏神様へも参拝する事も少なかった、定年退職後は少し心のゆとりもできて、毎年元日には鎮守様神明社へ初詣を欠かさない、だが節分の豆まきに行った事がなく、今年ふと節分祭に行って見ようと思い立った、思い立ったが吉日、こんな事を急に思い立つと云うのは、もうこの年になると、この世に存在するのもあと僅か、初めての事を体験しておこうと、そんな事が心の底流にあったのではないか、時間は分からぬが午後だろうと思い行って見た。

 2時過ぎ神明社の鳥居をくぐると直ぐ するめの醤油漬け焼きの匂いが境内全体に漂う、焼き餅と烏賊焼き 甘酒が無料で配られていて長蛇の列、小生小食になったので間食は殆どしない、焼き餅も烏賊焼き甘酒全く貰う気もなし。
 神楽殿で歌手が歌っていた、キングレコード所属の歌手だそうで、小生全く知らない歌手だった、あと神職のアナウンスが有り、2時半から拝殿内で節分祭の儀式、3時からか神楽殿で市内の小学生の太鼓演奏、3時15分から豆撒きになると云う、仕方なく境内で50分ばかり時間を潰すことになる。

 時間が有るので初めて神明社をぐるり一回りしてみた、境内の淵に立つと所沢台地が東川に向かって急激に落ち込んでいる台地の先端に位置していることが分かる、先人も素晴らしい土地に由緒ある神社を勧請した、今はビルや民家にでつまらぬ景色だが、その昔は西所沢から、狭山丘陵、三ヶ嶋の農村地帯の穏やかな風景が広がっていただろうと想像できる。

 脇には7社を祀る祠が有り、古い石碑も点在し、皇紀二六〇〇年記念碑(昭和15年 西暦1940年)想い起こせば皇紀2600年記念祝賀式典が盛大に行われたのを思い出す、その隣には奉納金35円の石碑が有る、昭和6年の石碑だ当時の勤労者の月給は60~70円 100円の月給を貰う人は高給取り、35円献金であの立派な石碑、献金より石碑の方が高くつくなどと考えてしまう。

 やはり所沢の鎮守様、歴史も古く由緒あり、拝殿奥殿とそれなりの重みと威厳が有る、時間を作ってその社の佇まい歴史などを見てみるのも楽しい。

   
神明社拝殿を脇から見る、普段正面からしか見ないが、重みを感じる拝殿 樹齢百数年を経た古木に囲まれた奥殿
   
拝殿から奥殿を写す 昭和6年35円寄贈の石碑、当時の普通給与生活者は月給60~70円程、100円の給与を貰う人は高給取り、 当節で云えば、普通サラリーマン月収40~50万円程の半額、20~25万円ほどの寄付、それでこんな石碑を建てたら赤字ではないか、何かそれなりの謂れが有る石碑なのか
   

 皇紀2600年記念碑 昭和15年(1940)今時の若い人に皇紀などと云っても分からないだろう、神武天皇が即位した日から数えた年号である、大東亜戦争勃発の前年で、盛大な祝賀会が有り、昼間は旗行列、夜は提灯行列、都電は天をも焦がす程の装飾と明かりを灯した花電車4~5台が都内を走り回ったすばらしい祭典だった。その時歌われた歌は、

金鵄輝く日本の 栄えある光身に受けて
    今こそ祝えこの明日  紀元は2600年
                         ああ一億の胸は鳴る

今でもはっきり覚えている、因みに今年は皇紀2676年である、こんな古い碑が有るんだねー

脇には7つの社を合祀した祠が有り
   
キングレコード所属の歌手だそうで、小生名前も知らない 舞台から降りてきて偶然真近で見た
   
歌を聴く観衆 家内安全 家族健康 合格祈願などの絵馬が多い中こんな願いも
   
焼き餅と焼き烏賊が振る舞われる、長蛇の列 序に甘酒もサービス
   
所沢出身の力士「大輝」南小 南陵中学 栄高出身数々の優勝を記録、角界でも期待される力士 大成して欲しい、それにしても大きい 子供が大きく丈夫に育つよう力士に抱かれ大泣き、お母さんはVサインで大はしゃぎ
   
いずみ町の子供太鼓連の演奏 神主さんに紹介され、口をへに字に結び緊張する所沢藤本市長
   
豆撒き始まる 張り切った市長裃が脱げそう 右端の人
   
遂に裃が脱げてしまい、神主さんにひやかされる、藤本所沢市長 後ろの人も微笑んでいる、この元気で所沢を元気な街にして欲しい パラ・・パララ・・善男 善女がビニール袋や帽子をさかさまにして豆を受け止める、それにしては豆が少ない、もっと景気よく、枡に半分くらいドバっと大量に撒いて上げると良い