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老いて楽しく

余生を楽しむ

草取り

2018-09-22 11:45:36 | 日記
見違える様になった
 
1年の内でも7月は雑草が一番成長する時期なのか?
草取りしようなんて考えている内に、あっという間に成長する、意を決して2~3日内に草取りをしようと思っていたら、左膝を痛めて歩行もままならず、7月末から整形外科へ毎日通院、こんな状態では草取りをする事など到底無理。

庭に高木が5本ばかりあり、昨年自分では高い木はもう危険で刈込も出来ず、所沢シルバー人材センターに伐採を依頼した、2人の人が作業に来てくれ、とても良い仕事をしてくれた、それで草取りも人材センターへ依頼した、日程が込んでいて、行けるのは9月になってからとの事。
7~8月は草も成長期、我が家の庭は廃墟の庭の様に草ぼうぼう、植木に影響のない通路だけ、除草剤を撒いて道だけは確保した。

9月になってシルバーセンターから来てくれ、草取りをしてくれた、とても誠実で仕事熱心な人で、8時前に車庫のシャッターを開けていたら、8時前に車を入れて作業を始めていた、背丈も伸び根を張った草を、端から手際よく取り除いていく、前庭だけでなく脇 裏まできれいに除草、小さい梅の木や、アメン桃の徒長枝も刈り込んで呉れ、大きなビニール袋に10袋も溜まった。

見違える様に庭が奇麗になった、とても真面目で誠意ある人で、自分で膝が痛い時、感謝の気持ちで一杯だ、ごみ袋1袋いくら、回収費用いくらと明細を記して作業が終わった、夕方他の係員がごみ袋を回収に来てくれた。

未だ作業請求書は来ていないが、昨年木の伐採に来てくれとた時の請求は、エッこんなでいいのと思う程安かった、一般植木屋さんを頼んだら結構な費用が掛かると思うが、シルバーセンターの作業は誠意ありいい仕事をしてくれて費用も安い。
 
紫蘇 朝顔 茗荷 南瓜雑多に蔓延り、紫蘇は時折天婦羅その他薬味に活用したし、紫蘇の実は枯れる前に摘み取り、塩漬けにするとスパゲッテイ その他料理に脇役でとてもいい香りを提供してくれる、茗荷は可成りの数収穫した、南瓜は2個収穫して結構旨かった、それにしても草ぼうぼう
 
植木に影響がない所は除草剤を撒き、撒けないところは草が伸び放題
 
草取りと言えば短い柄の草刈鎌で、しゃがみこんで目の前の草をむしっていた、何とも効率悪く膝腰が痛くなる、若い頃は平気だったが年を取ったらもう出来ない、こんな鎌でちまちましゃがみこんで草取りをしていた
 
近くの島忠へ何かいい物ないかと物色に行った、農機具売り場に長柄の草刈鎌が有った、腰を曲げず一度に1m以上草が取れる、これは腰も膝も痛くならず効率がいい、今まで2時間もかかっていたのが30分で済む、但し草が余り伸びない内が良い
 
9月の初め暑い中を草取りをしてくれる、人材センターの人
 
雑草に囲まれていたコリウス、草がなくなりすっきりした
 
どくだみ 茗荷 紫蘭 花ニラ 前の家から伸びて来た竹の若芽 三つ葉 雑草種々雑多に繁茂していたのが奇麗さっぱり。
前の家の竹がフェンスの基礎の下を潜り、我が家の庭に根を張り、春先から夏に掛け竹がわんさと芽を出す、うっかり放置すると竹が繁茂してしまい大迷惑、竹は迂闊に植えるものではない
 
家内の菜園 紫蘇 朝顔 南瓜 茗荷が繁茂していたのが奇麗さっぱり、牡丹の木の周りには水も撒いていってくれた、人材センターさんありがとう

おバカな乗り間違え

2018-09-14 10:25:28 | 日記
損しちゃったー
 

親しき友を尋ねて東武東上線 朝霞台駅に10時半友と集合を約束した、遅れない様に早めに西武池袋線「小手指」駅へ行った。
東武東上線「朝霞台駅」へ行くには、西武小手指駅から急行の他は、みな秋津駅に停車する、秋津駅から徒歩、武蔵野線新秋津に行き乗り替える、駅に着いて間もなく横浜中華街行き電車が来た、何の躊躇いもなくその電車に乗った。

車内に入ったら、窓は広く2列豪華リクライニングのシートで、乗った途端違和感を覚えた、これは特急豪華電車と思い、降りようかと思ったら、ドアが閉まった、たまにはこんな電車もかろうと、座席へゆったり決め込んだ、当然秋津駅に停車すると思っていた、所沢駅を発車して車内アナウンスで、次の停車駅は石神井公園と言う。

電車で秋津へ戻って、武蔵野線 北朝霞駅へ行くのが早いか、石神井公園からタクシーで朝霞台駅へ行くのが早いか、石神井公園からタクシーを選んだ、まだ45分あるから約束時に間に合うと思った。

結局約束時間にぎりぎり間に合った、友がいつもは早めに来るのに今日はどうしてと、心配したていた、何ともおバカな乗り違えだった、人生こんなおバカな乗り違えもあるんだねー。

横浜中華街行きにこんな豪華電車が走っていたとはつゆ知らず、年を取って世間に疎くなったのかなーと実感する。
因みにタクシー代は4,500円だった、誰かが金を使わないと世間に金は回らない、こんなおバカなな出費も世間の金回りに貢献したか。

こんな無駄な出費をするなら、友とお昼にもっと旨い物をご馳走できたなどとも思った。


蜂の巣除去

2018-09-10 09:00:36 | 日記
怖いもの知らず 無謀だった
 
 先日 部屋の中にスズメバチが飛び込んできた、網戸の辺を飛び回っているので、網戸を開けて外へ出そうとするが、部屋の奥へ逃げ込んでしまう、その後目につかなくなったのでいつか外へ出て行ったのだろうと、忘れていた。

 先日 商用で我が家を訪れた人がいて、玄関先で話をしていてほぼ話も終わり、来訪者が帰り際「お宅の軒下に蜂が巣を作っている」と教えてくれた、巣その物はまだ直径10センチくらいの小さいもの、だが周りには巣が見えない程スズメバチがびっしり、一生懸命巣作りに励んでいる、そうか先日部屋へ飛び込んだ蜂はこの巣の蜂だったのだ、こんな身近かに蜂の巣があるとは夢にも思はなかった。

 まだ巣が小さいので自分で駆除するか、専門家に頼もうか考えた、巣が小さいと言えども周りに数十匹~100匹程が居る、下手に刺激すると攻撃的なスズメバチ集中的に襲われる。

 散水ホースの強い水流で巣の蜂を追い払い、後 殺虫剤で巣を空にして、刈込鋏で巣を切り落とす作戦にした、散水ホースを上に向けて放水したら水圧が低くて、チョーロチョロ蜂を追い払うどころではない、返って怒らせてしまう、止む無く殺虫剤を真近で噴霧することにした。
 
 蜂の巣駆除の専門家の様な防護服などない、帽子をかぶりタオルを頭から覆い泥棒被りにして襟元を防御、長袖 長ゴム手袋 長靴を履き、脚立に刈込鋏 殺虫剤を用意して、先ず身の回りに殺虫剤を撒いてバリアを作り、蜂の巣寸前まで手を伸ばし一気に噴霧した。

 まともに殺虫剤を受けたのは下に落ちて悶絶する、一目散に遠くへ飛び去る蜂、小生の周りに纏わりつき攻撃する蜂、羽音を唸らせ攻撃してくる蜂、恐怖を覚えたが殺虫剤を体の周りに噴霧、殺虫剤のバリアを作る、攻撃的な蜂も殺虫剤には弱く逃げて行く。
 
 一目散に遠くへ飛び去った蜂は、倦土重来古巣再建のため飛び去ったのか、自分に害を与える外敵には攻撃を仕掛けてくる攻撃蜂か、蜂の中にも役割分担が確立しているのか。
 幸い蛹もまだ少なく巣も小さかったので良かった、女王蜂が育ち蛹が巣を埋めるのも時間の問題、たちまち肥大化してしまう、早期駆除でよかった。
 
体長3センチ程、黄色スズメバチではなさそう、頭が黄色 頭の後ろが黒 胴体が黄色と黒の縞模様、図鑑で調べたら「モンスズメ蜂」の様だ、黄色スズメ蜂より小さいが、攻撃性が一番強いとか、退治した後調べてみてゾットした、巣が小さくても素人は手を出すべきではないと書いてあった、刺されなかったのは幸運
 
蛹が少なく10数匹入っていた、女王蜂が育ち蛹で埋め尽くされたら、たちまち肥大化してしまう、早期でよかった、この後巣が何層にも重なったら手が出ない
 
玄関ポーチの上、毎日何度となく通っているのに全く気が付かなかった

旧友の安否を尋ねて

2018-09-04 08:36:00 | 日記
痛みに耐え友を訪ねて1万歩
 

 昭和14年に小学校に入学し、男子のみの1組に編入された、今では考えられない一クラス63人の大所帯、その間小学校から国民学校に改変されたが、昭和19年戦争が熾烈を極め、学童疎開等あり、縁故疎開 集団疎開とクラスが四分五裂に分散した。
 
 戦後52年を経て、平成9年有志が同級生名簿作成した時には、19名の人が確認された、その後毎年同窓会が催されたが、年々鬼界へ籍を移す人が増えて、高齢化もあり同窓会もいつしか霧消してしまった。

 そんな中特に親しい同級生が4人、何か催し等あると会合、展示品鑑賞後食事と一杯酌み交わし旧交を温めてきた、そんな事が年3~4回有り数年続いた。

 今年4月16日に友の写真展があり4人と知り合いの女性2人が鑑賞後同行、食事と親睦会を開いた、その時友の一人が足が弱くなり、女性に介護され歩いていた、足が弱くなったのも年のせいかと、命に係わるものとは夢にも思っていなかった、その人がほんの短時日の間に亡くなっていたとは、たった数ヵ月 人生の先は分からない。

 その友と特に親しい友が電話した、「現在この電話は使用されていません」のコールが有り、小生と他の友に電話を呉れた、電話が解約されたとは由々しき事、電話しか連絡ルートは何もない。

 独り住まいの友が住むアパートへ行って近隣の人に事情を聴くしかないと、アパートを訪ねる事にして友に話した、2人の友も同行すると言う。
 東武東上線朝霞台駅に集合、アパートへ行き隣人に話を聞く、「死んだのではないか」との事、全身から力の抜ける思い、更に確かめようと娘さんが近所に住み、近くの靴屋に努めていると聞いていたので、靴屋を訪れたが、全く違う店そこの店主の話では、朝霞台近辺には靴屋さんが何軒もあり、暑い最中我々の体力では虱潰しに探索はできない。

 アパートの大家さんなら事情が分かるかと思ったが、不動産屋が管理人になっていて、個人情報保護として話してくれない、只賃貸契約は解約していると教えてくれた、賃貸契約解約 電話も解約となれば・・・万策尽きた。

 慣れない土地でアパート 靴屋 不動産屋をめぐり、同じ所を行ったり来たり、膝痛がやっと癒えたばかり、腰の痛さもあったが一万歩近く歩き膝 腰の痛みがぶり返した、だが親しき友の消息を知りたくて歩き通した。

 
今年4月16日食事して酒も飲み元気だったが、奥のたばこを吸う人
 
沢山歩き朝霞台駅前の店で食事、亡き友に向けビールで「献杯」
 
膝痛も治まったばかり、腰も痛かったが友の消息の為一生懸命歩いた
 
当日膝を健康に保つための本を友がプレゼントしてくれた、友は有難きかな
 

膝痛-3

2018-08-30 15:30:00 | 日記
踏んだり蹴ったり
 
 5年の間に左膝3度目の膝痛、1回目は医者へも行かずに治った、2回目は18回ばかり通って完治した、今回は20回を越して痛みが取れた、年々年と共に治療期間も長くなっていく。

 今回も通院20回を超し痛みもなくなり普通に歩行できるようになった、だが歩いてつれる感じが有り、少し違和感はあった、もう痛みもなくなり通院も止めようと思っていたところ、今日検査しましょうと、施術師が言う。

 しゃがんだ時に痛みはないか、両膝を曲げた時に角度の差はないか、両膝の太さを計り浮腫みはないかを調べ、明日から膝の裏側に、超音波治療を始めましょうと宣告された、素人判断でもう通院止めようと思っていたところ、エッ追加治療、年も取り膝痛の回数を追う毎に治療日数が増えている、ここはお医者任せに根気よく通院しようと決めた。

 膝痛を庇いながら歩いたせいか、その負担と言うか皺寄せと言うか、腰に来た、超音波治療を始める朝、床から起きる時に腰に痛みを感じた、時間を追って痛みが激しくなり、膝が治ったら今度は腰かよ、年を取ると一つの所をカバーしようとすると他に負担が掛かり、他に痛みが出てくる、これは年を取った人間の宿命か、だが断固として痛みを除去しなければならない。

 若い時は振り向きもしなかったサプリメント、年を取って弱気になったか、兎に角回復させようと、「溺るる者 藁をも掴む」の心境で、先日発注した製薬会社の栄養補助剤が配達された、少し気長に服用してみよう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

膝痛-2

2018-08-26 11:27:29 | 日記
痛み和らぐ
 

 今回で3度目の膝痛、8月初めから整形外科へ通い始め、医院が休みで無い限り根気よく毎日通い、皆勤賞ものだ。

 初日膝を各方向から何枚かレントゲン写真を撮り、医師の診断では、膝の緩衝盤も長年の使用で摩耗した部分もあり、それが痛みの原因の一つになっている、だが膝周りの筋肉はまだしっかりしているから、少し治療すればよくなるだろうとの診断、痛みのために家に閉じこもってはいけないので、少し歩くことが良いと言われた。

 膝の屈折には痛みはない、座っているか腰かけて居るかして立ち上がって左膝に体重が掛かるとずきんと激痛が走る、びっこを引いて歩く姿を、自分で想像して情けない姿と思う。

 自転車は体重が掛からないし、屈折には痛みがないので、左足でもペダルは踏める、家から医院の前まで自転車、痛みは感じないが、自転車を止めた時左足を付くと激痛が走り転倒してしまう、先ず右足を付いて、ゆっくり左足を付いて降りる、病院の待合室で名前を呼ばれ立ち上がるのに何かに掴まり立ち、治療室迄びっこひいて行く、何とももどかしい。

 20回程治療に通いここへ来て痛みが大きく改善され、体重が掛かっても痛みを感じなくなり、歩行も楽になった、だが歩行中びっこは引かなくなったが、左足に何か違和感がある。

 9月半ばにブドウ狩りその他を企画した催しが有る、以前から参加を申し込んでいたが、医者が言う少し歩いて休憩を繰り返して、足慣らししなさいと言う、団体行動となればそんな勝手は許されない、今回リーダーに不参加をお願いした。

 今新聞などで医薬品外栄養剤が、各種大きく広告に載っている、今迄栄養補助剤と言うのかサプリメントと言うのか、一度も飲んだことがない、今回3度目の膝痛、痛みが取れても以後のケアーとして、或る社のヒアルサンコンドロイチンを注文した、これは鎮痛剤 解熱剤の様に劇的に効くものではなく、長く服用して効果が表れるのか、根気よく試してみよう。

 
 
 
 
 
 
 
 

膝痛

2018-08-19 08:58:50 | 日記
もしかして持病
 
 今回左膝痛は3度目、一回目は平成25年8月15日、親しき同級生が御嶽山でボランテアを遣っていて、レンゲショウマの写真をよく送って呉れた、現物を見たくて御嶽山を案内して貰い、レンゲショウマの写真を撮り、レストハウスや 御嶽神社参拝 御師の家数軒を案内された。
 そこで留めておけばよかったのに、過信して七代の滝も見たいと言ったので案内してくれた、これが崖に丸太置いた急坂を下る、手摺もない、この崖がこたえて左膝が痛くなった、一歩よろけると前を歩く同級生を巻き込んで谷底へ転落大事故になる、何とか慎重に谷底へ降りて、大事に至らず、滝を見物、この時熱中症の初期症状だったような気がする、友が何本かペットボトルを用意していたのを貰い助かった。  
 帰りは同じ高さを上らなければならない、途中岩場は鎖梯子につかまり四つん這いで登る、何とか上の道に辿り着いた時は完全に足は悲鳴を上げていた、同級生の杖を借りケーブル駅までたどり着く、御嶽駅改札迄10数段が昇れない、蟹足登りで横に一歩づつ、電車に腰かけた時は救われた気がした。
 
可憐なレンゲショウマを写しレストハウス 御嶽神社参拝 御師の家を案内され、ここで止めとおけば無事平穏に済んだ、己を過信大失敗
 
滝壺へ降りた時は、お昼を食べる気力もなく、少し脱水症状が有った。
 
自分のペットボトル同級生のペットボトルを貰い水分補給して、木の根と鉄格子に掴まり四つん這いで登る、この日は同級生に心配をかけた、この時は医者へ行く事も無く数日で治った
 
 
2回目左膝痛は平成29年1月29日東大和市郷土博物館へ、展示品鑑賞に行った帰り、バスへ乗り込むときに起きた
 
展示品鑑賞も終わり、友が用意して呉れた昼食を食べ、分かれてバス停へ、
バスのステップへ左足を掛け、力を入れた時に激痛が走った、膝が崩れ落ちた、両手で手摺を持っていたからよかったが、そうでなかったらバスの下に転倒していたと思う、東村山終点に着いて降りるのに一苦労、何とか我が家へたどり着いた。
翌日明治座公演を見に行ったが、乗り換え等が有り浜町まで遠かった、終わって新宿へ出て一杯飲むのが恒例だが、友が今日は真直ぐ帰ろうと言ってくれた、有難かった。この2回目は整形外科へ14日通い完治した
 
 
3回目は猛暑日続きで毎夜クーラーを入れた、足が冷えるので薄物を掛けると足が火照ってしまう、関節の緩衝盤の多少の摩耗も有るが、冷えが原因かもしれない、今日で13日間医者へ通って大分痛みが薄れた、もう少し通えば完治するだろう。
3回目となればもう持病だと思う、今回痛みが取れても、今後かなり気を使わないと、再発はすぐ起きるだろう、手術なんてこと無い様気を付けよう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

終戦の日

2018-08-11 08:56:26 | 日記
長い戦争が終わった
 
昭和20年8月15日に放送された、「昭和天皇の玉音版」現在はNHK放送博物館に、永久保存のため厳重に保護され、展示されている
 

 昭和20年8月15日終戦の日は山梨へ疎開中だった、朝6時か7時のニュースで「今日正午天皇陛下のお言葉がある」と放送されて居た様だ、朝ご飯を食べている時に父親が話していた。

 終戦の日は朝から強い太陽がぎらぎら、甲府盆地の擂鉢の底のような地形は暑くなった、それでも30度を少し超すくらいの気温だった、近年の様なバカげた気温にはならなかった。

 沖縄戦も6月に終結し、8月6日と9日には「特殊爆弾」(当時は原子爆弾とは発表されていなかった)が広島と長崎に投下され、B29の空襲が有っても、立川飛行場 所沢飛行場から迎撃する戦闘機は一機もなかった。
 正午の陛下のお言葉は、最後に本土決戦に備えて、国民に奮起を促す放送と父親は思って居た様だ、当時米軍が本土上陸をするなら九十九里浜だろうと専らの噂だった、確かに海岸線は長いし、艦艇も集結し易い、首都圏にも近い、昼前村中へ出てみると其処此処に大人が集まり、陛下のお言葉の憶測話、殆どが本土決戦を覚悟して居た様だ。

 当時長兄は中支へ兵役で派兵されていた、次兄は軍属で輸送船 白山丸に乗り込こんでいた、長兄は21年正月に丸々太って、背中に背負えるだけ背負って両手に大きな荷物を持って帰ってきた、次兄も魚雷に遣られる事も無く、戦後復員船で活躍した。

 当日両親 3兄 小生 妹5人がラジオの前の集まった、昭和10年代のラジオは縦型が多く、我が家は横型の比較的性能のいいのを持っていた、だが周波数を合わせるのが微妙で、少し狂うとガーガーピーピー、聞き難い、父親が調整して陛下のお言葉に聞き入った。

 陛下の話は難しくてよく理解できなかった、お話の中に「堪え難きを耐え、忍び難きを忍び」日本は降伏したのかなと思った、放送全部を聞き終わって、父親がぽつり「戦争が終わった」と言った。
 日本はそれまで戦争に負けた事がなく、本土決戦を覚悟していた人達も、落胆した表情の中にも何故かホットした安堵感のようなものが漂った。
 灯火管制で外へ明かりが漏れないように、暗い部屋で生活を強いられていたが、今夜からは電気を煌々と点けて暮らせる、こんな声も上がった、戦争のために抑制された生活を送っていたのが、解放されたのは喜びだった。

 戦時中「鬼畜米英」と宣伝されて居いたので、米軍が進駐してくると、婦女暴行 略奪が有るのではないかと、住民の不安が広がった。

 昭和20年11月わが村に一小隊が進駐してきて、我が校の3教室を占拠した、暫くすると米兵も慣れて、手招きするので行って見ると、直径20センチ高さ30センチくらいの大きな缶にコンビーフが一杯、白いパンを出して食べろと言う、腹一杯食べたら、チョコレート ガムを出して持って行けと言う、アメリカ兵は陽気で心優しく、こんな物資が豊富な国と戦っても勝てる訳がないと思った、以後時々アメリカ兵にご馳走になった。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

何処まで続くこの暑さ

2018-08-05 09:36:26 | 日記
殺人的暑さ
 
 普通8月に入り「立秋」に近くなると何となく秋めいて、それまで無風状態だったのが、少しそよ風が感じられるのだが、今年はそよとも空気が動かない、強い光線で道路も家も熱せられ、淀んだ体温より熱い空気を吸い込んでは、熱中症にもなりかねない。

 7月23日列島 最高気温の記録を更新したが、8月3日も暑かった、それまでは40度を超す都市は地方都市が多かったが、大都市名古屋で40度以上を記録した、我が家の温度計も、遂に40,8度を記録した。
 
 8月に入ると日中の暑さは厳しいが、夜には窓から涼風が吹き込むが、今年は全くその気配なく、30度以上の気温、湿度も高く、どんより重い空気そよとも動かない。
 
 湿気を帯びどんより淀んでそよとも動かない重い空気、寝苦しいこんな時は怪談噺の出番だ、 「草木も眠る丑三つ時、何処で打ち出すのか、遠寺の鐘が陰に籠って物凄く、ごおおおおんと響く、お歯黒どぶの柳の下に、恨めしやー」 と幽霊が出る、四谷怪談 番町皿屋敷 その他講釈師の出番の時だが、秋風が立っては怪談噺も興ざめになる。

 今年はいつになったら秋風や虫の声が聞かれるのだろう。

 
7月23日国内最高気温を熊谷市で記録した41,1度、当日我が家の温度計も40度を指した、だが8月3も暑かった大都市名古屋で40度超。
我が家の二階 南北の窓4ヶ所を開け放ち風を入れる、湿気を含み重く淀んだ空気は動かない、もしやと思いカメラを持って二階廊下の温度計を見に行った、案の定40,8度を指していた、デジタル温度計瞬時に0,2~0,3度変化する、もしかすると41度を指した事も有ったかも知れない。
 兎に角幼児 年寄りには過酷な夏である。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

暑気払い

2018-08-01 14:31:43 | 日記
楽しい仲間達
 
 先月末は何故か飲み会(暑気払い)がいくつか続いた、アルコールを好む小生としては、誘いがあった会合を断る理由がない、喜んで全部の酒宴に参加させて貰った、1対1の酒宴から7人程、20数人の酒宴、それぞれ趣が違って楽しい、小生も超高齢年代に入っているので、余分な発言はしない、若い人の話を楽しんでいる、日々進化する現代、若い人の話を聞かないと、急激に進化する現代に追いつかない、最もいくら話に耳を傾けても理解できないことが多くなった。

 皆さんの話を聞きながら笑い楽しんだ暑気払いだった、小生の周りの人は皆善人、人は皆心優しい、自分が心を開けば人も心を開いてくれ、包み隠しないと会話がとても楽しい、先日の暑気払いもとても良い触れ合いだった。
 
所沢プロペ通りのダイエー近くにある、無国籍料理の「海峡」無国籍料理とはどんなものか、参加前から期待が膨らむ
 
間口はあまり広くないが、奥行きがあり、ヘエーこんな店が有ったんだ、初めて行った店、最初に迎えてくれたのは、テーブルの上に切り抜きの鶴
 
皆さん三々五々集まりあと数人を待つのみ、手前にメモにボールペン会計をする人、会費を集め、追加アルコールなどきっちと清算こうゆう人は貴重だ
 
今年は梅雨明けが早く、酷暑が続き皆体力の消耗もあるが、20数人元気に集まり、会長の音頭で乾杯、楽しいひと時が始まる
 
ムム なかなかいい雰囲気だぞ、
 
無国籍料理 ビーフシチュウ蓮根 蒟蒻添え 巨大唐揚げ2個 煮込み大根長ネギ乗せ 卵焼き(出汁巻き卵だったらよかった)大根卸し添え 刺身盛り合わせ 茄子と赤株の香の物 味噌汁 ご飯 中ジョッキ2杯付き¥2,200
悪くなかった、小生にはとても食べ切れない、大半が残った