太陽光発電シニア

太陽光発電一筋、40年をはるかに過ぎたが何時までも興味のつきない厄介なものに関わってしまった。

雨の日に

2015-09-08 11:37:28 | 思い出話

こんなに長く雨が降り続いたという記憶は無い。10年くらい前異常に日照時間の少ない夏があったが曇天が続いたように思う。太陽光発電にとっては稼ぎの悪い(それでも晴天日の1割くらいは発電しているが)日々である。日射量の年平均は過去30年くらいのデータでも±10%くらいしか変動していないから何れ元は取ると思って差し支えない。寧ろ中途半端に降るより雨はパネルを洗浄している(濡れた土埃が雨でパネルにへばり付く間が無い)と思えば気分も休まる(大方の人は既に発電していること自体忘れてしまっている日常かも知れないが)。雨の効用は何かしなければと思う若い頃の夏の日差しに比べ妙に気分を落ち着かせることである。それは歳のせいか、今日は雨だから狩りに行くのは止めて洞穴でゆっくり休憩した遠い先祖のDNAかも知れない。この雨を何とか日常生活に役立てられないかと空想するのもまた楽しい。雨粒が幼稚園に通う子供の傘に当たるとピン、カン、トン、コン、キンとか音を出す仕掛け(電池は取っ手に組み込む)にすれば子供も楽しいだろう(町は不協和音でうるさいが)とか、ちょっと大人向けになると、水力の賦存量(利用の可否に関係しない理論上で計算される存在量)は降水量から地面に吸収される量を差し引いて降った地点の高度を掛けた「位置エネルギーの総和量」であるとか、砂漠だったらこの雨をどんなに喜ぶだろうかとか、野菜の値段が上がるだろうとか、暇としか思えない想像が巡る。しかし、どうしても頭から拭えないのはやはり雨も含めて自然(エネルギー)の利用についてである。中でも30年くらい前に読んだ上智大学名誉教授の押田勇雄先生の自然エネルギーの利用、特に太陽エネルギーに関する著作は今でも感心と同感が甦る。先生は熱力学の大家で太陽に関しては電池より熱利用に造詣が深かった。しかし、資源と自然エネルギーの違いを前者は経済的に偏在しており後者はその反対で誰でも手に入れられる、寧ろ環境の一部の利用であり、性質も全く異なり比較など困難だと言っている。例えばエネルギー量の表し方でも前者は体積や重量当たりであり太陽エネルギーは面積当たりであり比べようが無いと。先生の著作の影響もあったが2003年にFM青森で4週に亘り講話(実際は東京のスタジオで録音)する機会があった。その中で生意気にも次のようなことを喋った。

地球に降り注ぐ太陽エネルギーは、太陽が放射するエネルギーの22億分の1といわれている。その量は1時間分で世界が1年間に消費するエネルギーに匹敵する。太陽エネルギーと化石エネルギーを比較すると大きな違いは密度である。石油1kgを燃焼して得られる熱エネルギーは約12kWhで、100トンの水が約45mの高さにある位置エネルギー、秒速27mの風が単位面積に1時間吹いたときの運動エネルギー、晴天日が3日続いた時に地表1㎡が受ける日射エネルギーにほぼ等しい。太陽エネルギーに代表される多くの自然エネルギー利用の装置が大仕掛けとなるのは止むを得ない・・・・産業の発展は言い換えますと瞬時に大量のエネルギーを消費することで成り立っており、これを可能にしたのが石油や石炭などの化石燃料と言うことができます。より速く物をつくり、より大きく重いものを素早く遠くに運ぶ、つまり時間あたりのエネルギー消費の大きいものが20世紀の進歩、発展であり産業の勝者でもありました。・・・エネルギーの単位は、電気で言いますとkWhですが、これを時間で割りますとワットという単位が残ります。これは物理で言うところの「馬力」です。馬力という表現は皆さんにも何馬力の車とか馴染みの深いものですが、因みに1馬力は735.5ワットです。産業も人間も馬力のある者が勝ち、馬力を駆使することが文明の進歩だったわけです。例えば、同じ物を作るのでもコンベア‐速度の速い者が勝ち、東海道を歩いて行くより、新幹線で短時間に行くことが先進国の証でした。過去形で申し上げましたが、ただ今現在の価値観もこれに変わりありません。だからと言って、これからお話することは原始生活を始めようとか、自然の中だけで暮らそうという主旨ではありません。21世紀半ばに確実に直面するエネルギーと環境問題を、人類の叡智で如何に克服して行こうか、太陽エネルギー利用が果たすべき役割はなんであろかについてお話したいと思います。

今読み返しても随分生意気な偉そうなことをまことしやかに喋る中年だったと赤面する。正確に覚えてはいないが、先生の言葉で「自然エネルギーの利用で勇ましいという言葉は無い。空気のようにただ環境の一部を利用させて貰っているという謙虚さが必要だ。」というものがあった。何かにとって代わるとか経済性がどうかとかが最優先ではなく、自然にそうなるものであるという未来が誰の目にも明らかになることを切に願う。



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