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社内コミュニケーションは活性化できない

2014年08月31日 | コンサルティング

あなたの会社では社内のコミュニケーションは十分取れているでしょうか。

少し古いデータになりますが、「企業内コミュニケーションの実態に関する調査(NTTレゾナント、三菱総合研究所:2006年10月)」によれば、社内コミュニケーションは十分取れているかという質問に対して、「どちらともいえない」27.5%、「取れていない」26.6%という結果が出ています。

この調査では、コミュニケーション不足を感じているのは、「経営層と一般社員とのコミュニケーション」63.8%、「部署を超えた社員同士のコミュニケーション」65.3%、となっています。社内の「縦・横」との意思疎通が上手くできていないようです。

しかし、考えてみればこれは至極当然のことです。

なぜなら、「経営層と一般社員」あるいは「部署を超えた社員同士」は、日常的に異なる言葉を使って仕事をしているからです。

エクリチュール(écriture)という概念があります。「書かれたもの」とか「書かれた言語」という意味ですが、哲学者のロラン・バルトは「自然と決められた語り口や語法」といった意味で使っています。

エクリチュールについては「街場の文体論」(内田樹・著、 ミシマ社、2012年)にわかりやすい(独自の?)解説がありますので、以下に引用いたします。

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(エクリチュール)は「社会的に規定された言葉の使い方」である。
ある社会的立場にある人間は、それに相応しい言葉の使い方をしなければならない。
発声法も語彙もイントネーションもピッチも音量も制式化される。
さらに言語運用に準じて、表情、感情表現、服装、髪型、身のこなし、生活習慣、さらには政治イデオロギー、信教、死生観、宇宙観にいたるまでが影響される。
中学生2年生が「やんきいのエクリチュール」を選択した場合、彼は語彙や発声法のみならず、表情も、服装も、社会観もそっくり「パッケージ」で「やんきい」的に入れ替えることを求められる。
「やんきい」だけれど、日曜日には教会に通っているとか、「やんきい」だけれど、マルクス主義者であるとか、「やんきい」だけれど白川静を愛読しているとかいうことはない。
そのような選択は個人の恣意によって決することはできないからである。
エクリチュールと生き方は「セット」になっているからである。
バルトが言うように、私たちは「どのエクリチュールを選択するか」という最初の選択においては自由である。けれども、一度エクリチュールを選択したら、もう自由はない。
私たちは「自分が選択したエクリチュール」の虜囚となるのである。
つまり、私たちの自由に委ねられているのは「どの監獄に入るか」の選択だけなのである。

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私は哲学者でも評論家でもないので、エクリチュールとはなにかを十分理解しているわけではありませんが、社内」には立場や仕事によってエクリチュールのようなものがあると思います。

もちろん本当の意味のエクリチュールは、社会階層と表裏一体になっているものですから、「社会」を「社内」に置き換えることはその概念の矮小化に他なりません。

それでも、「経営層と一般社員」や「部署を超えた社員同士」はエクリチュールが異なっていると考えた方が合理的であるような気がします。

異なるエクリチュールを選択した(させられた)ことは、小さいながらも特定の発声法、語彙、イントネーション、ピッチなどを受け入れることになります。平社員であれば、たとえ社長より年上であっても、社長と同じような発声法、語彙、イントネーションで話すことはないでしょう。

会社という運命共同体に同居しているにもかかわらず、社内の「縦・横」のコミュニケーションが上手く行かないのは、エクリチュールが異なっているからです。

そう考えると、「社内コミュニケーションが取れていない」のは当たり前なのです。ですから、そのことを前提に仕事を進めればよいのです。

極端に言ってしまえば、会社の上層部や他部署を「よそ者」として認識し、多少面倒でも、こちらの意思を伝えるためにはどういう話し方や言葉を使えば良いのかをきちんと考え、実行することです。

「よそ者だなんて、そんな考え方をしたら会社がバラバラになってしまう!」と思われた方もいらっしゃるでしょう。

だからこそ、経営理念や社是といった「大きくて丈夫な容器」が必要なのです。

(人材育成社)