パオと高床

あこがれの移動と定住

梅津時比古『フェルメールの音―音楽の彼方にあるものに』(東京書籍)

2010-05-22 02:48:46 | 国内・エッセイ・評論
いきなり、冒頭のコラム「フェルメールの音」の、これまた冒頭の文から。

「音が止まる瞬間がある。その時、音は落ちずに空中に貼りついていて、それを支えている空気や光のあやうい均衡が、見渡せる。それは音楽が流れているさなかにも、時折、起き、音に照らされたいろいろな絵を、一瞬、見せてくれる。」

つかまれた。この人のコラムは冒頭の2、3行で心をつかまれてしまう。この本は、梅津時比古が毎日新聞に連載した「クラシックふぁんたじい」という音楽コラムをまとめた一冊である。どのコラムにも音への想いが溢れている。しかも、音を言葉で伝えるという困難が乗り越えられている。彼は、音を描こうとせず、音のありかを描き出しているのかもしれない。音を奏で、作り、愛する人を描き出しているのかもしれない。そして、音のある束の間を描き出しているのかもしれない。音が醸し出す気配が言葉になっていく。詩情が文章に宿っているのだ。しかも、文学や哲学などの素養が共鳴し、やわらかな思索を形づくっていく。音によってもたらされたものが記述される。見開き2ページのコラムは、その短さの中に充溢した中身を含んでいる。もちろん、その中身、ぎちぎちに詰め込まれたものではない。行間に音の住まう空間があるのだ。音は流れていく。その流れの中で立ち止まる音を感じとる。音はとどめておけないからこそ、音をすくいとろうとする。音が過ぎていったあとには、思索の追跡が音の余韻のさらに余韻となって残る。心をつかまれる数行で始まるコラムは、静かな問いややわらかな慈しみ、そして哀しみを伴った悔いや包まれる平安の予感などに辿り着くように終わる。そう、素敵な楽曲の余韻のように。

例えば、「溶けあうもの」を引いてみよう。
冒頭「ふたり、という言葉は、時に心に沁みる。温かさと悲しさがないまぜになって。この、ふたり、を基本に、ヨーロッパの音楽は発展してきた。」と始まり、ピアノ連弾に触れていきながら、ラフマニノフの「二台のピアノのための組曲第一番〈幻想的絵画〉」を紹介しながら、「そこにただよう悲しみが、ふたりで弾くことで、溶けて温かいものに変わっているような音だった。」と結ばれる。

とにかく、どこからでも読みたくなる一冊なのだ。ただし、同時に取り上げられたCDにも向かいたくなる一冊で、それはそれで、たいへんな欲求を起こさせる本なのだ。

ちなみに、梅津時比古に今年度の日本記者クラブ賞が贈られたということだ。
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