パオと高床

あこがれの移動と定住

蜂飼耳「ヤドリギの音」(文學界5月号)

2008-05-25 15:09:31 | 国内・小説
蜂飼耳の不思議な世界。段落ごとにイメージとその意味するものが絡まるような速度感。
『紅水晶』の作品たちに比べると、鋭敏に揺れつづける感性はオブラートにくるまれている感じがする。しかし、むしろそれは、詩的表現が散文的表現にくるまれている結果なのかもしれない。より散文的なたたずまいがあるのかもしれない。しかし、謎は深まっているような……。
『紅水晶』の短編にあった共生する設定が、この小説にもある。そして、独特の距離感。ただ、主人公が疑問形を使うことで、この距離感が案外、客観性を持っている印象を与えるのだ。そして、痛々しさの合間に、微妙なおかしみが加味されている。

それにしても、例えば多岐彦に惹かれるあかねの表現。
「それでも、多岐彦の顔貌があかねを引きつけることに、変わりはないのだった。うつくしいというのとはちがう。それは光のとどかない深海のような顔だ。開かれていると同時に、閉じられている。人間の顔というものに、このように引かれたことはない。けれど、多岐彦という人に引かれているのかどうか、わからないのだった。顔というものがここにある、とあかねは思う。あらゆることを飲みこんでしまう顔。」
二つのもの(境界や二項対立)の間を往き来する蜂飼耳の表現がある。開かれていて、閉じている。何だろう?レンジャクは何だろう。木箱は何だろう。ロバは。葵さんは。たくさんの意匠が、話されたがっているようで、沈黙されたがっているようなのだ。何だか、「振動をやめない車体に、からだは丸ごと運ばれる」ような気分だ。気になりつづけている。

顔で、ルオーの肖像を思い浮かべてしまった。

レンジャクという鳥は写真で見ると思ったよりふっくらしていて、冠羽が長く精悍な印象の顔かもしれない。二羽かルーズコロニーで繁殖するらしい。


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