パオと高床

あこがれの移動と定住

石見銀山に行く

2008-05-16 11:00:49 | 旅行
5月の連休に石見銀山に行った。
新緑のなか、中国山地の山間は気持ちがよかった。石見銀山の龍源寺間歩という銀山採掘坑道は、往時の一端を想像させて、なかなか見応えがあった。
それにしても、人が多かった。現地の担当者はよくがんばっていたと思う。いろいろな場所に係をおいて、懸命に応対していた。しかし、ボクらも含めて、それを超える集客数なのだ。少し、時期をはずして、ゆっくり回れば、さらに楽しめたかもしれない。それでも、大森の街並み地域やせせらぎの横の遊歩道など、とぼとぼ歩いて時を過ごすことはできた。
世界遺産としては十分に価値がある場所だと思う。それに観光地としての役割が、当然、くっついてきてしまうのが大変なことなのだろう。観光地としてのリピーターはそこまではいないだろうから、このブーム後が、実は真価を表すときなのかもしれない。
銀を積み出した鞆が浦の港も見たが、入江になった漁港の夕暮れがなかなかいい感じだった。
それから、仁摩のサンドミュージーアムにも立ち寄った。博物館としても世界の砂を集めてあったり、一年砂時計があったりと面白いのだが、とにかく、砂時計人気おそるべしの人気スポットだった。琴ヶ浜の鳴砂、本当に音がするのだ。
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アントニオ・タブッキ『夢のなかの夢』和田忠彦訳(青土社)

2008-05-14 10:56:55 | 海外・小説
他人の夢を見ることはできるのだろうか?

タブッキは芸術家が見た夢を想像し、その夢を創り上げて、「一人ひとりに捧げる夢のオマージュを織りあげ(訳者あとがき)」る。その夢は、彼の人生の転機であったり、死の直前であったりしたときに夢みられた、刹那でありながら、その人そのものを表す夢である。タブッキはその夢に、愛した芸術家の創作した作品や、彼らの苦闘や希望や恐れを埋め込んでいく。

ゴヤの夢では、彼の絵が連想できるし、彼が人間に対して注いだであろう眼差しが示される。アンジョリエーリの夢は、彼に起こった出来事が及ぼしたであろう体と精神への痛手が夢の形象となって表れる。コウルリッジの詩を生かしきった彼の夢。「月に魅せられた男」と表題されたレオパルディの夢は月のイメージが美しい。死の際を描くスティヴンスンの旅の終わりの夢。ランボーの詩の空気を醸しながら、夢の生き直しと自由を求める出発への憧れを描くランボーの夢。コラージュと批評の合体が見事なチェーホフの夢。自身の無意識が表れるフロイトの夢。そして、それ自体がペソアの変装への言及であり、ペソア自身の異名者探しでありながら、タブッキのペソア探しに繋がっているようなペソアの夢。それぞれの夢がイメージ豊かに作家を語る。

あとがきで和田忠彦が書いているように、これらは「物語のなかの夢ではなく。夢の物語である」。その断章が抱えこむ膨大な物語の情報は、断章として描かれた夢のなかから、さらに夢みられる。断章の断面が想像力のうねりにきらきら輝いている。

これらの断章はタブッキが娘からもらった手帖に綴られたものだということで、この本の冒頭に娘への言葉が書かれているが、その次に中国古謡からの引用がある。
 
 恋人の胡桃の木の下に立ち、
 八月の新月が家の裏手からのぼるとき、
 もし神々が微笑んでくれるなら、
 きみは他人の見た夢を
 夢に見ることができるだろう。

タブッキの夢も読者は見ることになるだろう。
夢についてのペソアの言葉があとがきに引用されている。
「一言で現代芸術の主要な特徴を要約しようと思えば、それは〈夢〉という言葉のなかに完璧に発見できるだろう。現代芸術とは夢の芸術なのだ。」
クンデラも現代小説の重要な要素のひとつに夢の記述と夢の文体を挙げていたと思う。他人の夢そのものを形象化しようとしたタブッキの独創と創造力が楽しめた。



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J.L.ボルヘス『伝奇集』鼓直訳(岩波文庫)

2008-05-06 15:22:27 | 海外・小説
ボルヘスを久しぶりに読む。以前より、楽しめたのかもしれない。しかし、以前も楽しかったのだ。だが、今回も読みながら、きっとボルヘスってもっと楽しいのだと思ってしまう。何だか、魔法にかかったみたいになる。真から偽への横滑りを果たしながら、真偽の境はなくなって、終わりが繋がる円環の中で、夢と現実も繋がって、時間は途切れなく、その物語は物語の完結を見せずに物語の時間の中にボクらを置き去りにしてしまう。解読を求めながら、意味づけに固定されない寓話の群れは、壮大な図書館である。次の物語への契機に満ちた物語の元型でもありながら、それまでの壮大な知に裏付けられた物語のネットワークでもある。多くの作家がこの人に影響されたのがわかるような気がする。まさに円城塔の『つぎの著者につづく』の世界なのである。

夢が常に他人によって夢みられた夢であるとして迷宮のように繋がっていく「円環の廃墟」。知の図書館への夢を搔き立て、人類の宿命も思わせる「バベルの図書館」。現代文学の推理小説的構造を先取りしている「死とコンパス」。実在と偽書の間を往き来する探求ものも面白い。きっと、ボク以外の人たちは、ボルヘスを読んで、もっともっと楽しんでいるのだと思いながら、自分にできるところまででしか楽しめないボルヘス。それでも、じゅうぶんに楽しみながら、「平原が何かを語りかけようとする夕暮れのひとときがある。だが、それは決して語らない。いや、おそらく無限に語りつづけているのに、われわれが理解できないのだ。いや、理解はできるのだが、音楽と同じでことばに移せないのだ……。」(「結末」)と言葉で刻まれたフィクションに、酔いしれてしまう。



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