パオと高床

あこがれの移動と定住

パトリック・モディアノ『さびしい宝石』白井成雄訳(作品社)

2008-05-29 10:02:29 | 海外・小説
ボクらがボクらの存在を支えられるのはどうしてだろう。ただ意味もなく在る状態から存在しているとりわけの自分に思えるのはどんなときだろう。
自分が生きていることの意味と、自分がいることの役割が、ボクらを世界につなぎとめる。そこまで自覚的でなかったとしても、その生きてきた時間なりの過去が、自分自身の過ごした時間が、ボクらの存在の基盤となってボクらを未来につないでいく。
かりに、今が無意味に思えたとしても、その今がたちどころに過去になっていくときに、その過去の実体がボクらの今を支えるものに変わっていけるか。それは、充実しきった今ではなくても、今を実際に生きるところからしか始まらないのかもしれない。実際に生きられた今があれば、そのリアルは過去の実体となって今を支える。
ボクらは断続的な無数の今を、自分の存在のなかにあって自分の存在を支える連続として再構築できるのだ。現在と過去と未来を、自分の時間として自分の存在の拡がりとして自覚し、自分の存在を立ち上げることが出来るのは、おそらく人間だけなのかもしれない。

しかし、過去が嘘で塗り固められていたら。探し出すべき自分の意味が、いつかあらかじめ失われてしまっていると感じていたら。自分ひとりが愛情の世界から切り離されて、世界のただ中に置き去りにされたとしたら。さまよう「わたし」の現実は曖昧で、実体のないものになるのかもしれない。そんな19歳のテレーズの物語だ。

ある日、彼女は死んだはずのママンを見かける。そして、尾行し、会おうとも思うのだが、彼女はどうしても気後れしてママンに会うことができない。彼女はママンのことを思い出していく。そのことが自分自身を探す旅にもなるからだ。しかし、そのママンの経歴は嘘で塗り固められているのだ。深まる謎。ビスケット缶の中の写真と手紙が残った実質で、あとは記憶の中にある。小説はテレーズの現在を描写しながら、断続的に思い出され問いただされる過去を織り交ぜていきながら進む。ボクらの記憶は連続的ではないのだ。非連続の集合体として存在している。それを意味の脈略でつなごうとするのだ。しかし、テレーズによって思い出され問いただされる過去は謎の中に宙づりにされる。だが、そのこと自体がかろうじてテレーズの生を支えているのかもしれない。
それとテレーズが関わる数少ない人たちである翻訳をする男や薬局の女性との交流の温かさ。この温かさが、テレーズを支えるようにこの小説を支えている。冬のパリの中で孤独な魂がほんのわずか救われていきそうな気配が、小説を優しさで包み込む。
また、テレーズは仕事で出合った少女の中に自分自身を見いだして、優しく接しようとする。その姿は痛々しさと切なさがやわらかさを伴っているのだ。そのやわらかさと優しさが、現実感が曖昧で危ういこの小説を、また設定として暗く殺伐としたものになってもおかしくないこの小説を、大きく抱きしめている。読んでいるときよりも読み終えたとき、しばらく小説から沁みだしてきた空気におおわれてしまう。その読後感は、妙に穏やかで、何か離れがたい気分にさせるものがあった。

切なさ、痛さ、いとおしさ、やさしさなどは、そういった言葉の直接表現ではなく、小説の行間から溢れ出したり、にじみ出したり、したたり落ちたりするものなのだ。言葉にすれば、結局そういった感情なのかもしれないという情感の中に、小説を読みながら読者は連れて行かれるのだ。そして、そこに置き去りにされる。置き去りにされるとき、余韻の質は決まるのかもしれない。
心地良く置き去りにされた小説だった。



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