パオと高床

あこがれの移動と定住

日高敏隆『動物と人間の世界認識 イリュージョンなしに世界は見えない』(筑摩書房)

2007-02-10 01:00:23 | 国内・エッセイ・評論
この作者、動物行動学者と言っていいのだろうか、動物についての豊富な話は人間の問題に繋がっていく。そして、築かれた世界観が、人類と世界の有り様に至る。
動物は「環境の中のいくつかのものを抽出し、それに意味を与えて自らの世界認識を持ち、その世界(ユクスキュルによれば環世界)の中で生き、行動している。」とこの本は書く。そして、「その環世界はけっして『客観的』に存在する現実のものではなく、あくまでその動物主体によって「客観的」な全体から抽出、抽象された、主観的なものである。」と記述される。そして、主体的な「環世界」は、それぞれの動物の「イリュージョン」によって成り立っている。つまり、客観的環境に対して、実は環世界がそれぞれに違った見え方をしながら存在しているということになるのだ。知覚された世界は動物に於いて違っているのだ。むしろ、客観的な環境というものがないのかもしれない。
それを、モンシロチョウとアゲハの色認識の問題やネコの世界の見え方、ダニの行動、ハリネズミの事故死など豊富な実例をあげながら語っていく。その話題の面白さに引かれる。そして、人間の「イリュージョン」の特質に話は及んでいくのだ。見えるものがイリュージョンである動物たちの中で、人間は概念イリュージョンを持ち、見えざるものを見えるものに転化しながらイリュージョンを変化増大させていく。死に対する輪廻転生の考え方、古代の世界観から地動説を了解してからの世界観への変更などを例証しながら、人間の時代や地域による「イリュージョン」の差違類似が、人間の環世界を実は構成しているのだと気づかされる。
動物と人間の見えている世界の違い。「イリュージョン」なしには世界を見ることができないという動物の現実。これが、とてもまっとうで、自然なことに思えてくる。すると案外、人間相互の中での世界の見え方の違いも、悪や正義で語られるものではないと思えるのだ。むしろ価値観の越境してくる暴力がどうしてこうも多いのだろうという気になる。

以前、多田富雄の『生命の意味論』を読んだとき、免疫学の方からあっさりと自他の区別が語られる凄さに驚きと目から鱗の感覚を持ったことがあったが、自然科学の語り出す世界に、視線の先が晴れるような気持ちを味わうことができた。本書には「色眼鏡なしにものを見ることはできないのである。」と書かれているのだが。

ただ、「幻覚、幻影、錯覚などいろいろな意味合いがあるが、それらすべてを含みうる可能性を持ち、さらに世界を認知し構築する手だてにもなるという意味も含めて」使われている「イリュージョン」という言葉がもうひとつ難しいかな。


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