パオと高床

あこがれの移動と定住

藤維夫「波紋」(詩誌「SEED」27)

2011-12-03 12:09:51 | 雑誌・詩誌・同人誌から
バッハが悪いわけではなく、またパールマンが悪いわけではない。ただ、こちらの気分だ。パールマンの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ」が何だか騒々しく聞こえてしまう。あっ、美しい音色だなと思うのだけれど、どうにも心がざわついてしまう。そんな時だってあるのだ。というときに、藤さんの個人詩誌「SEED」を開いた。詩が5篇にあとがきの詩。巻頭の詩「少しだけ秋」の冒頭2行がすいと入ってきた。心が静かに落ち着いた。

 少しだけ秋が近寄り
 いのちの息づかいにひとつの朽ち葉が舞っている
               (「少しだけ秋」冒頭)

朽ち葉が目に見えるだけではなく、何か音が振ってくるような感じがした。それは、「いのちの息づかい」が見えるものではなく、気配を感じるものだからで、その気配に朽ち葉が舞うから、何か音が重なってくるようなのだ。
次の詩「林のなかで」の冒頭にも心がついて行ってしまう。

 したたかな林がつらなり
 ひとは孤立して歩いている
 風は落ち ありうることとありえないことのはざまに拒まれる
 葉の波長のような宇宙が浮いていないか
 あと戻りする尾灯はもう見えない
              (「林のなかで」第一連)

したたかに連なる生の連続の中で、「ひと」は「ありうることとありえないことのはざま」に拒まれて「孤立」する。予想と予想不能のはざまで、未来の時間の中で、引き裂かれる「ひと」は、現在の中にいて、もしかしたら静かに過去からも拒まれていくのかもしれない。「孤立して」歩く現在。光に反応する色彩の波長が織りなす「宇宙」は「浮いていない」のだろうか。それはやはり「葉の波長」が発する「今」を映すものであり、帰路は見えないのだろうか。そう、「後戻りする尾灯はもう見えない」のだ。
ここでも、「葉の波長」が視覚的なものから聴覚的なものに移り変わっていくような感じがした。宇宙が、音が浮かぶようにあるのだという印象を持ったのだ。もちろん宇宙は沈黙の空間なのかもしれないが。この「波長」、あるいは宇宙は存在の「波長」が織りなす空間なのかもしれない。
だが、その「今」も過去へと流れていく。しかし、流れるといういい方は実は正しくないのだ。そんな線的なものではなく、また、寝そべった平面的なものでもないのだ。過去は立体的に、遠近法のようにも、逆さ遠近法のようにも存在していて、また渦状にも、波のようにも存在している。それは忘却の渦のなかにもあって、「わたし」は「わたし」を、生きられなかった半身と生きたではずの半身の、いずれもから忘却していく。
「波紋」という詩が掲載されている。

 湖を見ていて
 見えずにいるままにおかれるもの
 こころをねだって息を乱す
 樹がなみだしている
 何年もさかのぼればすでに過ぎさってるものもある

 わたしでないもの
 すべてが狂ってしまっていて
 水の深みに届かず
 どこへ行くのか
 時折透明な小雨のなか
 影が立っている

 乾いた人の目がこわくて
 過去として流れていく波紋
 そのまま攫われる快感の驚きで
 いつ立ち去ったかわからない
             (「波紋」全篇)

わたしが見てしまうものはわたしの影であり、それはわたしが見なかったものたちの、わたしには見えなかったものたちの集積である。そして、また、わたしから脱落していくものの後ろ姿の気配かもしれない。
では、そこで時間は静止するのか。いや、時は常に来る。藤さんはそれを詩に書き込んでいる。

 何がありつづけるかはわからない
 生き続ける野のひろがりがある
            (「ひとのいた場所」最終二行)
 映っている動きそのままに
 わたしでありわたしでない
 敏感な悲哀の空へ昇っていく
            (「あとがき」最終二行)
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