パオと高床

あこがれの移動と定住

綿矢りさ『大地のゲーム』(「新潮」3月号)

2013-06-01 10:52:44 | 国内・小説
ああ、こうくるんだと思った。と、書いても、何がそうきたわけだということなのだが、読んで最初の、というか途中の感想が、ああ、こうくるんだということだったのだ。
文学は出来事の余白に寄生する。出来事を語る多くの言葉が事象を伝えながら形づくっていく時に、文学は、小説は、その出来事の余白を描きだす。隙間に宿る。小説の問いは、余白から現れでる。例えば、記事はその出来事を描きださなければならない。起こった事象に対して、その事象を描きだすことに最大の労力が費やされるものだと思う。その事象が起こった必然を問いながら事象の因果の道筋を問わなければならない。また、政治は本来、現実的な対処の枠組みを描きださなければならない。政治の言説は出来事に対して取りうることと取り得ないことを計量していく。そんな中で、文学は余白に物語るものを見つけだす。だから、余白が生まれる時差を必要とする。時差によって生じる余白に言葉が滲みだすまで待つ。出来事でありながら出来事そのものではないところにも、小説は触手を伸ばすことができる。だからこそ、小説は遅れて現れても、力を持ち得るのだと思う。

綿矢りさのこの小説は、「あの夏」に起こった未曾有の地震によって崩壊した街の中、大学にいて難民化した学生達を描きだす。ニュースは次に続いて起こるであろう地震の可能性を告げ、警報は頻繁に鳴り響く。
小説は、震災以後であり震災以前である間(あいだ)を生きる状況を設定する。かつて、戦前、戦後という言葉に対して戦間期という言い回しで1920年代から30年代までの思想状況を語った本があったが、この小説は、そんな数年のスパンではなく、数ヶ月の仕切られた空間の中での宙ぶらりんの生の状態を描きだそうとする。宙ぶらりんなのは、震災を生き延びた命でありながら、次に起こるはずの震災によって命の保証がなしくずしになっているからであり、また、いったん命の軽さを見せつけられた者にとって、どこかしら生のリアルそれ自体が危惧と違和感を呼び起こすからである。
だから、「家や下宿先が倒壊して本当に帰る場所がない学生」もいるが、「家は無事だったのに、あの日以来取りつかれたように学校から離れない学生」もいて、主人公は、この「離れない」学生の一人である。そして、こう書き込まれる。

  それでも家に帰らないのは、たぶん日常に戻りたくないからだろう。 
 (中略)再び地面が激しく揺れる日は、まだ来ていない。しゃくにさわ
 る余震が一日に数回足の下を通り過ぎてゆくだけ。でもカウントダウン
 は始まっている。だから平和な日々をまだ思い出したくない。どうせ築
 いても、またすぐ壊れるかもしれないのだから。

その学内で、その夏起こった事件をひとつの軸として小説は進む。さらに、学園祭を実行するという学園祭の日に向けて小説の時間は進んでいく。その日々の中で、主人公である「私」と「私の男」。「私」たちが所属する「反宇宙派」というグループの「リーダー」と呼ばれる男。そして、「マリ」。この四人の四角関係が小説の中心である。

「リーダー」は震災の後、秩序を無くし暴徒化し混乱した学内で、いち早く、組織化を進め秩序を提示しカリスマ的な存在となる。
彼は学内で強く語りかける。「私たちに指導者などいらない。あなたのリーダーは、あなた自身です。この崩壊寸前の世界で、あなたを救えるのは、あなただけです。」と。
そんな「リーダー」の強い言葉は人々の心をつかみ、人々は、頼ることができるのは自分自身だと言う彼を頼っていく。「私」は「リーダー」に惹かれながらも一方で、「リーダー」の持つそんな存在自体の矛盾にも気づいている。「私の男」も「リーダー」の孤独とその欺瞞に気づいている。人々の群衆性が「リーダー」を支えているのだ。その現れが夏の生徒リンチ殺害事件である。「私の男」は、そのリンチの引き金が自分であったという罪の意識を抱えている。だからこそ、集団が集団的な狂気に憑かれ流れることを冷静に恐怖している。そして、「私の男」自身の罪を肩代わりし、カリスマとなっていく「リーダー」に距離をおき、殺意も抱く。

小説では、「反宇宙派」という組織に属す者は固有名詞をはずされている。また、「私」との関係が成立している者はその役割で書かれている。一方、「マリ」や「マリ」を追いリンチされる「ニムラ」は固有名詞で書かれている。「私の男」と学生達は固有名詞の「ニムラ」をリンチ殺害する。「リーダー」に近づき、「リーダー」と特別な関係になっていると思われる「マリ」は、他の女子学生に狙われ、「私」も「マリ」に両義的な感情を持つ。この「マリ」は、次のように描かれている。

  マリに気楽に声をかけたが、彼女がふりむいたとき息を飲んだ。何も
 考えていないのに憂いを帯びた大きな瞳。未来も過去も持たず移り変わ
 る季節にだけ存在している小動物。子どもっぽい顔立ちが愛くるしいの
 に、大きな瞳は時おり真っ暗な虚無しか映さない。真昼のつぎに、すぐ
 真夜中が訪れる彼女の内面は、読み取れず、つい息をつめて観察する。
 虚無が醸し出す異様な存在感に、周りの学内の風景が吸い取られて雑に
 見えた。子どもにもおばさんにも見える彼女は人間をかたどった精巧な
 ミニチュアだった。

アニメ系か、コンピューター上で作られた人間を連想する。一方、時間を持たない常に現在形の存在にも見える。そんな存在は、時間を意識しその中で生きている者にとっては、魅力的でありながら忌避すべき対象にもなる。そんな彼女が学内を逃げ回り、「私」を頼る。「私」は彼女を保護しながら同時に彼女に殺意を持つ。
災厄による大量の生の喪失が背景にあることで、「殺意」や「排除」が強力になっているが、起こっていることは日常的な集団の中で起こっていることと相似形である。綿矢りさは、震災という現在私たちが置かれている状況を設定しながら、実はそれをはずしても存在している日常的な状況を描きだしている。
ただし、その日常的な状況が乗っている「大地」は、実は、生が賭けられている場所であり、私たちは「大地のゲーム」の中にいて自身の生を賭けていくしかないのであるというところに作者の思いはあるのだろう。
小説は冒頭、「私」が幼いとき、兄と一緒に乗った「夜の電車」の場面で始まる。

  いつか力尽きるから美しい。その美しさからは逃れられない。
  この世に死があると知ったのは、家出した兄と一緒に乗った、夜の電
 車のなかだった。横並びの座席で兄の隣に座った私は、ほかの乗客が見
 るのも気にせずに泣いた。

私たちはいつどんな状況で死を知ったのだろう。そして、その認識の段階と関係なく、唐突に訪れてしまう死とは何なのだろう。訪れることによってしか認識できない死。しかも、自身の死は訪れて認識したときには終わってしまう。と考えながら、この書き出し、「いつか力尽きるから美しい」の「美しさ」は何の美しさなのだろうとも思う。「力尽きる」ことの「美しさ」なのか。それは違う。「力尽きることは美しい」とは書かれていないのだ。この主語が省かれた書き出しは、主語への謎を残す。そして、「逃れられない」とする「美しさ」が何なのかを問いとして残す。この書き出しの省略された主語を「人」あるいは「人間」と置くと、書き込まなかった理由が明白になる。あまりに直接的すぎてかえって浅薄になるからだ。だが、そんな言葉が省かれていることを思うと、この小説が基本、何かを糾弾する姿勢の小説ではないことが感じられる。「力尽きる」からこそ美しく、さらに美しいから「逃れられない」人間の生を肯定しているまなざしがあるのだ。生によって死を語る。あるいは、死は生の側からしか語りえないのではないだろうか。

細部に気になる点がある。それを気にしだしたら、どうなんだろうと思えてくる。だが、災厄という大きな物語と学内という小さな物語を結びつける力業と構想された小説の持つ展開、それから綿矢りさの語り口に引かれて一気読みできる小説だった。「悪」の「悪」性、「暴力」の「暴力」性が、オブラートされている品性。本来暗部であるものに何か光が宿っている感じもいいのかも。
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