パオと高床

あこがれの移動と定住

『梅棹忠夫 語る』聞き手 小山修三(日経プレミアシリーズ)

2010-11-06 02:51:32 | 国内・エッセイ・評論
2010年7月に90歳で死去した梅棹忠夫の「最後の語り」である。小山修三によって進められた聞き書きの最終部分にあたるのが本書なのかもしれない。「はじめに」には、こう記されている。
「この書は、梅棹さんの同意をえて、ほぼ全体の形が整う段階に来ていた。(中略)ところが、最終のまとめ直前に亡くなられてしまい、実質的には最後の語りとなった。」
率直で熱く、前向きに批判的で、闊達に人を鼓舞する、気力溢れた語りである。

章立て自体が、梅棹忠夫の語りの一節で出来ている。その章立て、例えば、「自分で見たもの以外は信用できない」や「歴史を知らずにものを語るな」や「情報というものはつくるもんやと思っとらへん。勝手にあるもんやと思ってる」や「困難は克服されるためにある。」などなど。それは、自分で見つめ、自分で考え、自分で確かめるという反骨でありながら王道でもある精神に貫かれている。

それにしてもあけっぴろげだ。梅棹忠夫は思考を伝達するというプロデュース力も併せ持った、運動する知性だったのだ。
「文化史というのは価値論や。文明史というのは現象論です。まず現象論を確立しなければいかん。」という発言もあったが、その現象が起こった背景や起因にまで踏み込んで「生態」を捉えようとする姿勢のなかに彼の画期があったのだろうと思う。単に、論を論で終わらせず、生き生きとして生成している状態を見つめる思考が、「知的生産」や「情報産業」という言葉のように、先取りして定義付けしていく先見性を生み出していたのだろう。

思想家とはどんな人をいうのだろうか。そんなことを考えてみた。また、思想家という言葉が持つイメージとはどんなものだろうかとも、改めて考えてみたくなった。

『回想のモンゴル』と『文明の生態史観』は面白かった。
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