パオと高床

あこがれの移動と定住

福間明子「見上げれば空」(「水盤」9号)

2012-03-06 22:16:03 | 雑誌・詩誌・同人誌から
福間明子さんの詩「見上げれば空」を読んで、今の自分の位置のことを考えた。
福間さんの詩は、「正しくない泣き方」(「孔雀船78号」)、「それからのキリン」(「孔雀船79号」)、そして、この詩と続けざまに興味深くて、あれこれ考えてしまった。

前置きが長くなってしまう。福間さんの詩についてのみ読む方は、前置きを無視してほしい。

(前置き)
事態、状況において同時代を生きていても、当然のようにその事態、状況との距離感は人によって変わる。それは「国家」や複数化あるいは集合化された「私たち」や「人々」として括りえるものではなく、括られることからむしろ逸れていく。ただ、そのときに、逸れることに快楽があるか苦痛があるか、自らの正当性への確信のようなものがあるか罪悪感のようなものがあるかは、もちろんその事態、状況によって異なるし、「私」との関係によっても違ったものとなる。
と、このように書いてしまう回りくどい書き方が、すでにボクの関係性の現れであるのだろうが、その距離の微妙な揺れ方を真摯に見つめることは表現の道筋をつける方法の一つなのではないだろうか。
事態と自分との地理的な距離。その地理的な距離だけではない、事態と自分との直接性から生まれる距離、例えば、感受性、想像力の振幅による距離。「…と、感じなければならない」といった道徳的な要請に違和を感じながら、自分自身の感性に直に向き合ったときに現れる、近づいたり離れたりする感情の揺れ。それを捉えていくことも表現が軌跡を刻む方法の一つなのだと思う。
あらゆる状況において、表現は単一であってはならない。また、自身に対する要求を他者に科すものではないだろう。もちろん、それに対する批評は自由である。そして、いわゆる「政治」の言説から詩や小説や評論の言葉は逃れていなければならない。「政治」は行うべきことを速度をもって行うべきだ。「政治」が「政治」の言説を恣にし、「政治」の実行をやぶさかにするのは、これはまた実は「政治の言説」に対する裏切りなのだが、この国では、どうやらそれが「政治」らしいから困ったものなのだ。
と、戯言のようになってきてしまったが、
で、ここまでは前置き。

(詩について)
福間明子さんは、ある事態を語ろうとするのではなく、事態と自分との距離の揺れの中に言葉の在りかを探そうとしている。ちょっと変な言い方だが、事態の中に言葉の在りかを探すのではなく、つまり事態を描き上げる言葉を探すのではなく、かといって、自分の心的状況を言葉によって表明しようともしない。しかしながら、単に自己の日常の側に立って、今ある自身の日々のかけがえのなさへと向かったりもしない。距離の中にあることが言葉を探し、獲得していく場所になっているのだ。
では、なぜ事態を描きだす言葉に向かわないか。おそらく、それがすでに手垢の付いた見知った何かの描写をなぞることになるかもしれないからだ。
では、なぜ心を描きだそうとしないのか。直截な言葉の空虚を引き受けてしまうしかない、かもしれないからだ。あるいは、モラルの規制のかかった言葉やセンチメンタルな情感にまみれた言葉になるかもしれないからだ。そして、いつか何かのコピーのような表現になってしまうかもしれないからだ。そうなれば、それは、自分とのずれではなく、希薄化された自分をさらすことになる。それがもたらすのは失語の力ではなく、言葉の無化された単なる非力となる。その危機とも戦いながら言葉は動いていくのだ。そう、言葉は言葉を求めるものだから。

で、
詩誌「水盤」9号の詩、「見上げれば空」。
 
 ネギは怖いから無農薬野菜市場で買おう
 ギョウザは作るのに何把いるのだったか
 朝起きてコーヒーを入れて家族を送り
 掃除 洗濯 こまごま用事を済ませると夕日が茜色に

 アウト これで一日がおわります
 放射能が降る土地ではネギどころの話ではありませんね
 気がかりのようでも理解できるわけではありません

「アウト」という言葉によって、夕暮れの茜色の中での断絶が示される。時の地平の断絶。しかし、「放射能が降る土地」という行からの2行で、「アウト」という言葉で生まれた断絶に、距離があることでの細い通路が敷かれる。意識を表明することが意識化されることでの通路を開くのだ。この思いは、茜色の空を見上げて思い起こされていることだろうと思って続きを読むと、次の連でやはりと思わせる。詩の題名にもつながる。

 見上げれば空はいろんな形の雲でにぎわい
 見かけだけは不安の翳りもなく
 それだからいっそう躓きのめりそうになる
 まじめに生きているからこそ などとはいわない
 なにもしなくても生きていける ともおもわない

詩の打ち消しは、打ち消したものの存在を残す。意味的に文脈では打ち消していても、書かれたものを読者に残す。むしろ、それが企図される。雲の「にぎわい」の中に「見かけだけ」ではない「不安の翳り」が、ないことを無視して感じられる。「不安」をよぎらせるより、「ない」ことで「不安」がよぎっている。もちろん、「見かけだけ」なのだから隠れた「不安」という文意は伝わる。
ここで微妙だが不思議なことが起こる。「それだからいっそう躓きのめりそうになる」というフレーズなのだ。「のめる」のは前に、だ。見上げながら前につんのめる。「躓く」から「のめりそうになる」のだが、上を向いている。上を向きながら歩いている状態なのだろうか。立ち止まって、あるいはベランダかどこかから空を見上げているわけではなく、移動しながら見上げていたのか。買い物の途中のように。すると、ここが寓意性を帯びてくる。「のめりそうになる」とは、歩行の「アウト」になるのだ。遠くを遠くをと、見上げながら歩いているうちに躓く。足下をさらわれる。そして、さっきと同じ打ち消しの残像が書き込まれる。第3連の4行目、5行目の「などとはいわない」、「などとはおもわない」という言い回しにも同じような効果が現れていて、「まじめに生きている」と「なにもしなくても生きていける」がどちらも打ち消されながら、残る。どちらもが、何か絡め取られてしまう。そして、

 つい昨日まで知らなかった事が
 今日は言葉となって伝達されます
 だけれども事実とは違う事を知らされることもあります
 まったく やってられません

「だけれども」の息の長さが、「だけど」や「しかし」や「だが」ではなく、「だけれども」の音の長さが、冷静さへの距離を表している。そこで、「まったく やってられません」が来るのだ。「まじめに生きている」と「なにもしなくても生きていける」のどちらをも「ない」にして、二つの距離の間にある態度。「やってられません」という位置を引き寄せている。

 することがないわけではないができれば釣りでもしてみたい
 鮎釣りはどうだろうか または
 夜の鰻釣りには竿に鈴などつけて チリリン
 見上げれば空は億光年の恒星の煌めき
 運良く彗星に遭遇することもあり
 想像ではなんでもありの冒険もできるが

「まったく やってられません」と「することがないわけではないが」は呼応している。消極的な立ち止まりが遡行の契機になっているのだ。消極的な支持としての時の遡行かもしれない。釣るのは川を遡る魚。時を遡れば、「チリリン」の音の先に「億光年の恒星」が見えるのだろうか。見上げた茜色の空は、いつか星空になり、星のただ中の場所に立っている。これは夕暮れから夜へと時間が経ったということではなく、想像の中で時空を飛んでいるのだろう。夜に、星に包まれる「鮎釣り」または「鰻釣り」。ここには戻れない時間が仄かに漂っている。「想像ではなんでもありの冒険もできるが」と、「が」がつくのだ。遡行する魚を釣り上げても時を遡行することはできない。想像でできる冒険への諦念のような気配も宿っている。そして、終連、問いを発する。

 喪失感ってどういうものですか
 出口のない明日って あるのでしょうか
 あるのでしょうかというのも へんでしょうか
 取り返しのつかない昨日とは これは事実ですね
                  (「見上げれば空」全編)
 
終連の1行目は直截な言葉が書き込まれる。作者がこれまでにも感じたであろう「喪失感」と比較しえないさらに深い喪失感への率直な問いという読み方が、まず、できるだろう。「どういうものですか」という言い回しは、どういうものを喪失感といえばいいのですかという言い換えが可能だろう。
この詩に一貫している態度、それは経験しえないものに対応できない言葉を打ち消しの形で提示する姿勢なのかもしれない。直截な言葉が姿を変えて配置される。だから、この「喪失感」も、作者の率直な問いという読みができながらも、よく喧伝されてきた「喪失感」という言葉への静かな批判がやどっている。
例えば、詩では、「喪失感」という言葉を使わずに、「喪失感」があるといった感想を与えるような書き方をする。むしろ、この言葉を書いてしまうことは詩への説明になってしまう。だが、そうやって評されてきた多くの詩が醸し出していた「喪失感」といった情緒への疑いが、このフレーズには感じられるのだ。「喪失感」を感じさせる喩によらずに、あえてむき出しの「喪失感」という言葉を書く。ここでは、言葉は記号化している。ただ、これをカタカナ表記などにするケレンは見せない。なぜなら自身への内省があるからだ。
そして、問いは、おずおずと提示される。「出口のない明日って あるのでしょうか」。声はひそやかになる。まるで、絶望感を排除するように。あるいはありきたりの「絶望」の情感に絡め取られることを避けるように。「あるのでしょうかというのも へんでしょうか」。この一行には、相手に向けてだけ問いを発し、問いで詩を完結させようとする宙ぶらりんの詩になることを回避する態度が現れている。
最終行は、距離を自覚した詩に相応しい、明日と昨日のはざまである、「今」で終わる。「出口のない明日」を問い、疑問形の「か」の文末にならない、確認と了承の「ね」という文末になる。「事実」となった「取り返しのつかない昨日」で、詩は終わる。ここに言葉として書かれていない時間。それは詩が書かれている「今」なのだ。思いの中では遡行できても、変えることのできない「昨日」の「事実」を抱えこみながら、問いの行方を捜しながら歩く。ゆるやかな歩行の詩は、距離の自覚の詩でもあり、それが、実は「明日」を向いていることを感じさせるのだ。「ある」は「ない」、「ない」は「ある」を表現する言葉の力を孕んだ詩だと思う。



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