パオと高床

あこがれの移動と定住

辺見庸『瓦礫の中から言葉をーわたしの〈死者〉へ』(NHK出版新書)

2012-03-10 12:35:08 | 国内・エッセイ・評論
東日本の大震災のあと、いつごろからだろう、どこか違和感を感じ続けていた。論調が、報道が、少しずつ増えていくごとにそれに乗って語り出される言葉が妙に肥大化していく。大きな言葉の波の中に、ささやかな個別の声といったものが押しやられていくような感じと同時に、感じ方や処し方が、ある志向性の中にのみこまれていくような感覚があった。もちろん、そんな感じを持ったのはボクだけであろうはずはない。ただ、その違和感の根拠が何なのだろうと思っていた。いや、わかっていたのだ。ところが、それを言うことを憚られるような、自分で自分にブレーキをかける方がよいような、そんな空気に包まれていた。そこに、その感じに、辺見庸は、根拠を与える。

辺見は、大震災直後の自身の失語について書く。

  それは、言葉でなんとか語ろうとしても、いっかな語りえない感覚
 です。表現の衝迫と無力感、挫折感がないまぜになってよせあう、切
 なく苦しい感覚。出来事があまりに巨大で、あまりに強力で、あまり
  にも深く、あまりにもありえないことだったからです。できあいの語
 句や文法、構文ではまったく表現不可能でした。
  大震災は人やモノだけでなく、既成の観念、言葉、文法を壊したの
 です。

 そうして、「失語症のような状態」がながくつづいたあと、辺見はその「観念、言葉、文法」を壊したということ自体に取り組むことが表現者であると思い至る。そして、「瓦礫の原で言葉を手探りし、たどりながら」、言葉を、届く言葉を、身体を持った言葉をめぐる思考を、綴るのだ。
辺見庸は、先達の言葉の中に、それを見いだそうとしていく。その姿勢が、「失語」の中から言葉を立ち上がらせる作業であることを告げている。バシュラール、ボードリヤール、ベンヤミンらを引きながら、マスコミの言辞や公的機関の言辞、流布喧伝される言葉を疑い続ける。さらに、万葉集、聖書、オーウェル、石川淳、原民喜、石原吉郎、ブレヒト、折口信夫、川端康成、串田孫一、堀田善衛らの文章と対話するように、表現の自在さが持つ力を語っていく。
それは、あとがきで書くように「言葉の危うさ」を指摘しながら、「言葉の一縷の希望」を紡ぎ出そうとする姿勢なのだ。
報道、マスコミ、権力に対する辺見の視線はぶれない。そして、言葉がそれらにいかに抗していくか。抗する態度の中に言葉の回復があり、言葉を回復することが、瓦礫の中から立ち上がる力になるのだという思いがある。
あとがきで、次のように書いている。

  あとがきから先に眼をとおす読者に、本書のテーマ(いまふうに言
 うと、キーワード)を申しあげておく。「言葉と言葉の間に屍がある」
 がひとつ。もうひとつは「人間存在というものの根源的な無責任さ」で
 ある。詳しくは本文をお読みいただきたい。

大震災が作りだした状況。そして、それによっても、なお過去からずっと継続している状況。または、それによって、より突出してしまった状況。そして、また一層消えていってしまうような状況。今、ボクらが立っている時間と場所を考えることができる一冊だった。

3月10日の朝日新聞朝刊に阿部和重が「言葉もまた壊された」という文章を寄稿している。言葉や情報への信頼が失われたとする論調である。言葉をなくす事態とは、衝撃による言葉の無力感からくる喪失だけではなく、言葉が朽ちていくことでの言葉の迷子化の両方があるのだ。
コメント
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