パオと高床

あこがれの移動と定住

司馬遼太郎『韓のくに紀行―街道をゆく2』(朝日文芸文庫)

2009-09-06 17:31:11 | 国内・エッセイ・評論
2005年に出版されたムック本の『週間街道をゆく』の6号が『韓のくに紀行』で、その冒頭は「朝鮮民族には凄みがある」という一節の引用から始まっている。これにならえば、「司馬遼太郎には凄みがある」といえるだろう。特に、案外、「このころの」という言葉をつけてもいいのかもしれないが。

司馬遼太郎の凄みというのは、小説にとどまらず、その現場を歩く歩行に思索を重ねながら、「作家たるもの」という言葉を付け加えなければ、とても把握し尽くすことができないであろう、その場の記憶に、そこに傾けられた歴史つまりは人の生業を読みとる緊張が孕む、凄みだ、といえるのではないだろうか。ということは、当然、その、人の生業というものには、その場に至る作家司馬遼太郎自身の生の痕跡も含まれる。

この「街道をゆく」が2巻目だったことは知らなかった。近江に向かった1巻の、その先に半島にゆく。湖西からの道が、司馬には見えていたのかもしれない。
1971年7月から72年2月まで連載された、この紀行、司馬にとっての私的なるものを一気に文化論に、さらには文明論に立ち上げていく勢いのようなものがある。そう、文化を圧する文明圧とは何か。さらには、歴史が民族に残す痕跡の、歴史的受容の質的差とは何なのか。それは当然、乗り越えるための思索を必要とする。いや、むしろ乗り越えの契機は思索ではなく現象なのかもしれない。その現場を嗅ぎ取ること、体感すること。それは、記憶の中に半島への痛恨の思いと同時にロマンを持った司馬遼太郎の宿命だったのかもしれない。

朝鮮半島を歩くということは、日本と半島との近現代史を歩くことを意味してしまう。そこには、壬申倭乱も重なってくる。日本が半島に対して行ったことを抱え込みながら、彼らからのまなざしを受け止めなければならないのかもしれない。その複雑な状況を漂わせながら、司馬は2000年のスパンでの倭と半島との関係に思いをはせていく。加羅、新羅、百済と移動しながら、白村江の戦いに至る歴史的流れを、倭が日本になっていく過程と重ね合わせるようにして想像する。近代国家の範疇では語られない古代の「くに」の有り様と、壮大な交流史、そこにおのずからなる民族性へと話は多面的に広がっていく。

「倭」を単なる、今の日本における「くに」として考えない、最近の半島と日本との境界をめぐる歴史観を、70年初頭にすでに先取りしている思索は面白い。

また、作家として、彼は観念だけで思索しない。「歌垣」で踊る人々や木立のしたに座る老人たちとの交流の中で、人が生きている歴史に触れていく。その触れあいから、例えば、ガイドであるソウルっ子のミセス・イムと新羅の歴史案内人や百済の歴史案内人との掛け合い漫才のようなおかしみのある場面を作り出したりする。今時の、コメディタッチの韓国ドラマを見るようだ。あっ、こんな場面あるよなと思わせる韓国の人の議論や態度が目に浮かぶような場面が作られる。
あるいは、扶余の夜に滅んでいった百済人の亡魂の声を聞きとり、実際にその白村江の戦いを描写してみせる作家魂。それは、最終章の鎮魂へと繋がっていく。
やはり『街道をゆく』は面白い。

それにしても、江南の旅での「うだつ」へのこだわりや、今回の「沙也可」や「倭館」へのこだわりなど、この作家は多岐的な好奇心と広範な知識を持つ一方で、執拗に一点に向かう深さを伴った執着心がある。それが、あの長大な作品を書き上げていく力なんだろうか。
コメント
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